アイマスMR感想とアイステ終了に寄せて

アイマスMRに行ってきました。

「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆2nd SEASON」通称アイマスMR。私が参加したのは9月22日の萩原雪歩主演回の第二部でした。1st SEASONは諸事情(主にお金)のため参加できなかったので、私にとってはこれがアイマスMR初参加になります。

アイマスMR、というかプロミ2017(「THE IDOLM@STER PRODUCER MEETING 2017」)でその一端が紹介されて以来、いろいろ考えるところはありました。まあそれは後述するとして、実際に観てみなければどうにもならんと今回実際に参加してみて、もともと考えていたことは勿論、それ以外の様々な思考も促され、またその未だかなり荒削りな面も含め、非常に面白い体験でした。行けば間違いなく「行ってよかった」と思えるものだったと思います。


・ざっくり感想

ざっくりと公演の流れを書いておくと、まずはいつものライブ同様、小鳥さんによる諸注意でスタート。それから765メンバーたちのユニット曲→雪歩ソロ1曲目(『ハミングロード』)→MC→ユニット曲→雪歩ソロ2曲目(『ALRIGHT*』)→締めのMC→社長の挨拶って感じだったと思います。

1st SEASONからあまり情報を得ておらず、どんな構成かも知らなかったので、1曲目から雪歩が居なかったのも驚きましたが、まず最初のユニットパートを見ての感想としては、感動や驚きというよりは別の世界のもの、または彼岸を目にしたような戸惑いがありました。それは、仮想世界で完結するゲームとも実世界でのライブとも違う、まさにその境界に立つような体験でした。

ビデオゲームにおいて、基本的にプレイヤーはゲーム内キャラクターを通じてゲーム世界に触れます。VRなどでその体験が限りなく主観的になろうが、あくまでゲームの中で動いているのがゲーム内キャラクターで、そこで起こることは全てゲーム内のルールで完結することに変わりはありません。アイマスにおいても同様で、現実のプレイヤーはどこまでも「プレイヤー」であり、「プロデューサー」というゲーム内キャラクターとは別物です。程度の差こそあれ、このように全てがゲーム内で完結し、実世界に直接的な影響を及ぼさないからこそプレイヤーは安心してゲームを楽しめます。

また、ライブやイベントにおいて観客である我々は「プロデューサー」と呼ばれますが、言ってしまえばこれは「ファン」の通称であり、ゲームにおける「プロデューサー」とは違います。一方、ステージでパフォーマンスする声優さんたちも、かなり近い存在ではあれど、キャラクターそのものではありません。これは言わばごっこ遊びのようなもので、声優さんがキャラクターを演じ、観客もそのように振る舞うことで、キャラクターのライブというものを成立させています。しかし本物でないからこそ、「プロデューサー」としてファン的な振る舞いをするのも、声優さんが本人としてトークしたりするのも違和感なく受け入れられますし、また逆に本物に近づいた(と感じた)時の感動は決してゲームで得られるものではありません。

そして今回のMR。これはつまりごっこ遊びに本物が混ざってきたようなもので、例えば仮面ライダーごっこをやっている少年たちのところへ本物のライダーがやってくれば、少年たちは「ライダー」や「怪人」ではいられません。「本物」と相対した時、ごっこ遊びをしている側の「本物でなさ」が否応なく曝され、少年は少年へと戻されます。このようにMRでも、ステージのアイドルたちが「本物らしく」映れば映るほど、それに対する我々の「プロデューサーでなさ」がより際立ってしまうのです。仮にこれがプレイヤーや視聴者が最初からアイドルに与しない「ファン」であるコンテンツなら、「本物」と対峙したところで「ファン」は「ファン」ですから何も矛盾はありません。アイマスMR、特に序盤のユニット曲パートでは、相互的ではなく、若干PV的にも映る映像を目の当たりにし、対する我々観客は「ファン」でしかない振る舞い(サイリウムとかコールとか)をしている状況で、どうしても「本物」とそうでないものとの境界がより強く意識されてしまいました。

とはいえずっと観ていれば慣れてくるのが人間で、困惑しつつもそのうち「こういうものか」と受け入れていきます。そしてそのように慣れた頃に、現実のダンサーさんを交えて最初のソロ曲が始まりまるのですが、これがそれまでのユニットパートで感じていた「境界」と、ある種の「限界」を易々と超えてくるものでした。

現実のダンサーさんと並んだり、アイドルの裏を横切ったりといった、確かな現実感は、回心に至る十分な効果がありました。勿論、ちょっと後ろが透けていたり、動きがギクシャクしたりなどはあるのですが、ユニットパートのPV感が逆にソロの現実感を引き立てるのもあってか、そういった粗はほとんど気になりませんでした。

ここで一気に引き込まれた後、MRの真骨頂であるリアルタイムのコミュニケーションが味わえるMCパートに移ります。それまでのライブパートは、基本的にソロも含めステージ上ですべてが完結しているため、何らかのアクシデントを除けば、その世界が破綻する危険はありません。しかしこのMCパートは、アイドルが観客側に語りかけ、観客側がそれに答えるという、本当に現実と虚構の境界を超えるものなのです。しかも、アイドルは我々観客を「プロデューサー」と呼びますから、アイドルが現実に降りてくるのではなく、観客側が虚構の中に取り込まれるようなもので、つまりは我々も意識的に「プロデューサー」を演じなければならないのです。いくらアイドルが姿、声、話す内容に現実感を伴って会話しようとしても、対する観客側が「ただの映像にモーションアクターの方が動きをつけ、声優さんが声を載せているだけ」といった素の意識で受けてしまえば、その虚構は簡単に破綻します。

それがなんとか成立していたのは(少なくとも私が見た公演では成立していました)、長年アイドルを演じてきた声優さんをはじめ、ステージを作り出す方々の技術はもちろん、それを見てきた我々ユーザーの中で長年培われたアイドルに対する共通認識、連帯感が生まれる小規模な会場、安くはないチケットが「ふるい」になったりと、様々な要素がギリギリ揃った故だったと思います。

MCパート中はアイドル側も、プロデューサー側も、未だ手探りで危うい感じは否めませんでしたが、その分「なんとかこの場を成立させよう」という連帯感が会場に生まれていく様子も感じ取れました。そして、このように会場全体が共犯関係になって虚構を現実にしていく感覚は、やはり「アイマス」らしいものだったと思います。

その後のユニットパートは、明らかに前半のそれよりも観客側の熱が一段階上がっていました。それは、直前のMCパートで今ステージで歌い踊る存在が生きた人間だと示され、我々観客側もそれを受け入れた、少なくともそう振舞うような連帯感が生まれたのがやはり大きかったのではないでしょうか。または、それまでは付け入る隙のない「本物」のステージだったのが、MCパートを経てまだ不完全で隙のあるものと分かり、それでかえって観客が入りやすくなるという、現実のアイマスライブに近い構造が見えたというのもあるかもしれません。

ともかく、この時点で最初に感じた違和感はかなり少なくなっており(全く無いとは言いませんが)、後は最後のソロまで没入して見ることができました。


・ちょっと気になった点

…と行った具合に、最終的には結構楽しみ、公演時間以上の満足感は得たわけですが、途中でも少し触れたように、気になるところもそれなりにありました。

第1に、やっぱりユニットパートのPV感は気になります。曲終わりごとに暗転→ステージ、衣装、立ち位置が瞬時に変わるというのは、確かに華やかではあるのですが、ひとつながりのステージという認識はなかなか持てません(初めからPVと明言してくれれば、それはそれでアリだとも思いますが)。ただこれは連続してステージを流せなかったり、連続したステージにするとめちゃくちゃ制約が増えるとかの技術的な問題をカバーするためのものかもしれないので、なんとも言えないのですが、逆に言えばノーカットでライブを見せられれば、簡単に没入してしまうものだとも思いました。

一方で曲によってはPV感から飛躍する瞬間も何度かあって、例えば『MUSIC♪』でのマイクを持ったステージがそうでした。基本的にMRでは、ゲームと同様アイドルがマイクなどは持たずフリーハンドで歌い踊るのですが、ゲームと違い視点が固定され、ズームして見ることも出来ないので、誰が歌っているのかがパッと見で分かりづらいのです。これもまた「アイドルが歌っている」というより「音楽に合わせて映像が流れている」ように見える=PV感に繋がる要因の一つかと思います。その点、マイクというのは「歌っている」ことを示すにはこれ以上ない記号で、離れて見ても誰が歌っているか一目瞭然です。

また、何かを持つ(外界に干渉する)ということそれ自体も映像にリアリティを与えると思います。これもまた映し出されるキャラクターが「実際にそこにいる」という記号になり、それが多いほど「こちら側(現実世界)と同じルールで動いている=存在している」という実感を与えてくれます。『 The world is all one!!』で手を繋ぐのもそうですし、現実のダンサーさんと並んだときにより強く実在感を感じるのもおそらく同じで、私は見れてませんが他公演にあった実際の椅子を使ったステージというのでも、同様の効果があったのではないかと思います。

まあ当然マイクを持てば派手なダンスが出来なかったり、新たにモーションを起こさないといけないので一長一短なのですが、手っ取り早くリアリティを出すには、やっぱりマイクが一番手軽なのではないでしょうか。

また「誰が歌ってるか分からない問題」に関しては、『The world is all one!!』でサイドのモニターにアイドルのアップを映すという演出もありましたが、画質が荒く、粗が目立っていたので、正直そこまで上手くいってる感じはしなかったです。アップ用はアップ用で別に映像を用意するとかすればまた違ったかもしれませんが(タイミングとかカメラワークとか難しかったり、そもそもやってたかもしれません)。

...と、ここまでは技術の進歩によってどうにかなるところが殆どだと思いますが、そうではない構成面でも気になるところはありました。

このMRステージで一番入りづらいのは、やはり最初のユニットパートでしょう。今流れている映像はPVとして捉えるべきか、ライブとして捉えるべきか、また自分たちは「プロデューサー」なのか「ファン」なのか、はたまた「お客さん」なのか、何も説明のないまま始まるので、ただひたすらに戸惑います。映画やゲームなどで「何も分からないままその世界に放り込まれる」という表現があったりしますが、そういうものは得てして序盤から周到に世界観の説明がなされます。それが無ければただただ「よくわからない」ままで終わりです。

その点、今から出てくるのがどのような存在かということを説明する上で、中盤のアイドルとのコミュニケーションパートは十分有効に働いていたと思います。これが冒頭にちょっとでもあれば、より公演に入りやすくなったのではないでしょうか(ライブ直前の舞台裏とかの設定にすれば、自然かつ公演の性質も説明できますし)。もしくは「これから流すのはPVです」と最初にはっきり言ってしまうかですね。

あとこれは個人的な願望ですが、公演の本当の舞台裏、つまり声優さん含む現実の作り手の方々が出てくる機会も欲しいなあと思いました(最終日にちょっとあったみたいですが)。みんなで虚構を現実のように扱うというのも楽しいのですが、表面ばかりでなく裏側、つまり作り手の方々や技術面などにも触れられるというのもまたアイマスの醍醐味だと思うのです。

勿論「ずっとその世界に浸っていたい。それに水を差す現実は見たくない」みたいな人もいるでしょうが、そこは必ずしも相反するものではなく、現実と虚構の境界がはっきりすればこそ、より深く虚構の世界に入っていけるということもあると思います。例えば、「こうやってサイリウムを振ろう」や「あんな掛け声をしてみよう」といった、アイドルとの会話では決めにくいライブシーン中の観客側の「ファン」としての不振る舞いなんかを現実パートで決めておいて、それをライブパートで実行したりすれば、より没入できて楽しいんじゃないかと思います。

ここまで挙げてきた「気になるところ」は、裏を返せば「今後期待すること」でもあります。アイマスMRは、765AS組が10th以降の停滞感の中で、初めて単発ではなく先に繋がる可能性を感じさせた展開でした。是非ともブラッシュアップしながら今後も続けて欲しいですし、私もなるべく参加したいとも思います(財布の中身を見ながら)。しかし会場が一箇所しかないのはネックですね。「DMM VR THEATER」のような劇場が全国にできればいろいろできそうですし、私も行きやすくなるのでしょうが、そこは一朝一夕でどうにかなるものでもありませんし...。


・MRとリアルライブ

まあそれはそれとして、担当の方もおっしゃいっていたようにアイマスMRはそれまでの「アイマスライブ」とはやはり全く別のものです。ここまで私が構造の話ばかりしてアイドル自体に触れなかったのもそこで、MRに出てくるアイドルは、良くも悪くも「そのもの」すぎるのです。私はアイマスのキャラクター達を(担当は特に)概念的にぼんやりと捉えていて、それはアイマスにはいわゆる「正史」のようなものがなく、パラレルな物語の集合体であることに起因します。物語がパラレルならば、当然キャラクターもパラレルで、それらを全て総合して「このキャラクターはこれこれこういう人間だ」と言い切るのは不可能です。例えば「犬」という大きなカテゴリーに、「柴犬」や「ダックスフンド」や「サモエド」といった様々な品種があるようなもので、それぞれ全く違う特徴があっても、それらを全て覚えておくのは大変なので、凡そ「四速歩行で毛皮をまとい、ワンと鳴く動物」を便宜上「犬」としているだけです。生物学上はもっとちゃんとした分類法があるのでしょうが、大抵の人の認識としてはそんなものでしょう。キャラクターについても同様で、765は特に膨大な物語の中でキャラクターが語られていますし、途中で1歳年をとったり、雪歩に関してはさらに声も変わっていますから、キャラクターに対する分類は大雑把にならざるを得なかったのです。

ところで話は逸れますが(ここまでで十分逸れてる気もしますが)、近頃定期的にキャラクターに関する不満(「〇〇はそんなこと言わない!」的な)は、ソーシャルゲームが基盤となり、それを中心に何年も続いた結果、ソーシャルゲームで語られた物語が「正史」化し、一方展開はパラレルだったりするために起きる齟齬が一つの原因ではないでしょうか。一部の展開の「正史化」は、ユーザーの没入度を高める一方、それが長く続くほど他の展開への移行が困難になっていきます(GREE版のミリオンライブ!がそうでした)。今後この辺りはどうしていくのでしょうかね?

閑話休題

大雑把なキャラクターのイメージを全て投影できるのが現実のライブです。キャラクターに近くも根本的には違う声優さんだからこそ、こちらのイメージを投影する幅があります。一方MRはキャラクターそのものが登場しますが、それはまぎれもない「本物」であるがゆえに、こちらのイメージを投影する幅がないのです。そんなわけで、私個人としては「雪歩に会えた」というよりは「自分が知っているのとはまた別の“萩原雪歩”を見た」という感じが強かったのです。まあこれは先述のようにキャラクターを概念的に捉えるようになった結果で、この「同じだけど同じじゃない存在を見る感覚」はゲームだろうがアニメだろうがどこかにはあるので別に問題はありません。問題なのは「MRがあるし現実のライブはいらないっしょ」となってしまった場合で、そうなると私などは自分の中のイメージそのものと出会う機会が無くなってしまうのです。最近は(765の)ライブどころかイベントさえ開催されるかが不安定になっており、何より『LEMONADE』も生で聴けてないので、どうにか現実のライブイベントも定期的に続けていってほしいものです。


・アイステ終了に寄せて

あっ、後はアイステ終了にも触れないわけにはいきませんね。私がMRに参加したのが、ちょうどアイステ終了が発表された週で、自分でも驚くほどショックを受けていたのですが、あらゆる765の展開が縮小傾向にある中、久しぶりに可能性の感じられたMRに触れられたのはかなり救いになりました(そしてエンドロールで「アイステ」の文字を見てやはり切なくなりました)。アイステ終了に関しては「新番組始まるからいいじゃん」とか「悲観的なムード出してると周りも寄ってこねえぞ」みたいな言説も多数見られましたが、何もかもが不定期で不安定な現状で、唯一ごく初期から続いていたものが終わるとなれば悲観的にもなります。さらに私は「最近聴いてなかったけど、終わるとなったら切ないなあ」みたいなものではなく、毎週欠かさず聴いて、日常の一部にさえなっていたのでなおさらに。

そして私が悲観しているのは「765が終わるかも...」ではなく「生かさず殺さずのこの状態がずっと続くのか...」ということです。おそらくバンナムも「765ASを畳みたい」というよりは「今さら畳めない」か「畳みたくはないが、どう動かしていいかも分からない」といった感じで扱いに困った結果が、今の「御本尊」的な扱いなのだと思いますが、個人的にはこの不安定な状況が続くぐらいならいっその事盛大に畳んで欲しいが、それも許されず静かに消えていくしかないのだろうか......といった感じのアンビバレントな状況なのです。

実際このMRだって次がある保証はないですし、シンデレラやミリオンに移行していくことだってありえます(現状それが上手くいくとは思いませんが)。...まあこんなことを言ってもしょうがないですし、「今あるものを全力で楽しめよ」というのも全く正しいと思いますが、こういう複雑な感情を忘れてしまったら、結局何が好きだったのかも分からなくなって、最後には何も無くなってしまうとも思うので、たまにこうして愚痴るぐらいは大目に見てほしいものです。

うーむ、何だか悲観的な感じになってしまいましたが、MR自体には大きな可能性も感じられましたし、新しいラジオが楽しみでない訳では全くないので、それはそれとして今あるものは楽しんでいこうと思います。特にラジオの方は作詞家の方も出演されるということで、前からちょこちょこ書いてたアイマスに関わる作詞家の方々をまとめている文章を近いうちに出したいと思います(元々そういうつもりで書いてたものではないのですが...)。


それでは、とりあえずこの辺で。

消灯ですよ。