【映画】映画に取り憑かれた者の業『フェイブルマンズ』感想(ネタバレ)

スティーブン・スピルバーグ監督最新作『フェイブルマンズ』観ました。

 

初めて映画を見て以来、その魅力に魅了された少年サミー・フェイブルマンは映画制作に夢中になるが、家族との関係の中で葛藤を余儀なくされる。スピルバーグの自伝的作品。

 

映画愛に溢れた作品ではある。しかしその一方で映画を撮るという行為の暴力性や、アートに生きることの孤独に対してかなり自覚的な作品でもある。全体を通して楽しさよりも苦さが際立っており、あの天才・スピルバーグの自伝映画として観に行くとかなり意表をつかれる。

 

冒頭、映画についてサミーに説明する両親の正反対の視点がまず興味深い。映画の技術的な側面を熱く語る父、情緒的な楽しさを語る母、そしてその両面を兼ね備えた映画の天才・スピルバーグ(サミー)という構図が一瞬で腑に落ちる。同時に父と母の価値観のズレというのがこの時点で既に予感される点も抜かりない。

 

父と母のズレというのが全編にわたってサミーの葛藤とリンクしており、それは中盤に登場する大叔父の「アートと家族の間で引き裂かれるだろう」という言葉にも繋がる。芸術家気質で、サミーの好奇心に理解を示す母だが、しかしながら本人の才能を発揮する場には恵まれない。一方の父は自身の才能を存分に発揮してトントン拍子に出世していくが、「理想の家庭」を求める姿勢が母との確執を深めていく。サミーは主に母と共鳴する形で話が進んでいく。

 

この両親の溝を露わにしてしまうのがサミーの「映画」である。キャンプ場での母と父の親友の睦まじい様子を見つけてショックを受けるサミーは、家族上映の際そのシーンをカットする。しかしその裏でカットしたシーンだけを集めた「映画」を制作し、母に見せることとなる。これは思いがけない現実を捉えてしまうカメラの恐ろしさを示すと同時に、本来捨ててしまってもよかったフィルムをわざわざ編集して「映画」にせずにはいられなかったサミーの業も感じさせる。

 

他にもカメラを売ろうとした瞬間にカメラをプレゼントされる、サミーの演技指導で思った以上に役者が役に入り込んでしまう、彼女にフラれた直後でも作品を上映しなければならなくなる、作品が思いがけず人のセンシティブなところに触れてしまうなど、映画の恐ろしさ、映画から逃れられない苦しみを描いた場面は枚挙にいとまがない。

 

サミーの業を特に感じさせるのは、母が家族に離婚を切り出すシリアスな場で、サミーがその状況をカメラで撮る自分を幻視するシーン。これは客観的に状況を受け止めることで辛い現実に耐えているという側面もあるだろうが、劇的な場面を前に「映画」にすることを考えずにはいられないサミーは、当然の反応として感情的に母を責める妹たちとは決定的に違う世界にいることがハッキリする。

 

その後のサミーは大学に行くも上手くいかず、映画業界にも入れず辛い毎日を過ごしている……と思ったら一通の手紙からあっという間に映画業界への扉が開き、レジェンド監督にいい言葉も貰っちゃって、自分の道を確信してジ・エンドという怒涛のエンディング。

 

こんな急展開にも関わらず異常に爽やかで素晴らしい着地になっているのは、間違いなくレジェンド監督のジョン・フォードを演じるデヴィッド・リンチのパワーだろう。登場時の異様さから、たっぷり間をとっての「地平線」問答。何が起こってるのか分からなくて何度思い出しても笑ってしまう。

ここで言われる「地平線が下にあると面白い絵になる、上にあっても面白い絵になる。真ん中にあるのはクソ」というのは、もちろんカメラアングルの話では無くて、「中庸がいちばん駄目」というものの見方についてのアドバイスだろう。これによって辛いことが多かったサミーの人生も遡って「面白い映画」だったのだと肯定できるような、本作の締めとしてこれ以上無い言葉で「その通りだよ」としか言いようがなかった。それを受けてカメラをちょっと上げて終わるという、気の利きすぎたラストショット含め、観てしばらくはこの一連のエンディングに全てを持っていかれていた。最高。

 

改めてスピルバーグが映画の天才というのがとてもよく分かる作品だった。

 

 

それではこの辺で。

消灯ですよ。