【映画】聖女が本当に信じたもの『ベネデッタ』感想

ポール・ヴァーホーベン監督最新作『ベネデッタ』観ました。


 

 

17世紀のイタリア、同性愛で裁判にかけられた実在の修道女の記録をもとにした劇映画。

 

強い信仰を持つベネデッタは6歳で修道院に入るが、完全なリアリストである修道院長をはじめ、修道院側がベネデッタの信仰に戸惑い、右往左往するという構図がまず面白い。修道女の中にもベネデッタの「聖痕」に跪くなど信仰を感じさせるものはいるし、民衆は専らベネデッタを支持する一方、修道院長や教皇大使など、権力を持った人間ほど実利を優先し、神を信じていないというのも皮肉が効いている。

 

ベネデッタの幻視や聖痕、時折放たれる「神の声」など、本作においてそれらはほぼ自作自演のように描かれる。しかし当のベネデッタは自らが神に選ばれているということに全く疑いを持っていない。ここが混乱を招くところであろうが、実際この2点は矛盾するものではない。小鳥の助けで盗賊を撃退する、聖母像が倒れてきても無傷など、幼い頃からの経験が自信となり、神に選ばれている確信を得る中で、無意識のうちにそれを補強する「現実」を自ら作り出すということは十分にあり得る。むしろ無意識であるからこそあれほどの傷を自ら付けられるのであって、打算だけでできるものではない。この狂気とも呼べるような信仰が一種痛快に映るのは、ベネデッタにとってのキリストはあくまで自身の願望を実現させるためのいわばオルターエゴであって、結局のところ信じているのは「キリスト教」ではなくあくまで自分自身だからではないだろうか。

 

ベネデッタが権力を握っていくのも、聖痕等を利用して成り上がっていったというよりは、神に選ばれているのだから相応の立場を得るのは当然といった風情で、権力欲のようなものはあまり感じられない。その一方でベネデッタには確かなカリスマと、感染病に対してロックダウンを行うなどの手腕もあり、為政者としての実力も兼ね備えているのだが、とはいえ間違いなく困った人物であるという、一面的な評価をさせない人物造形はさすがヴァーホーベンといったところ。

 

ベネデッタ以外の登場人物も、リアリストである一方神を求めていた修道院長と正しさに飲み込まれるその娘、性暴力の被害者でありながら当然自分の性欲もしっかり持っている(ヴァーホベン前作『ELLE』にも通じる)バルトロメアなど、みな一面的にわかった気にさせない味わい深い人物ばかりで、何度も見返したくなる非常によくできた映画だった。

 

 

それではこの辺で。

消灯ですよ。