「アイマスP」なる集団は今実在するのか問題

Vtuberグループ「にじさんじ」が『M@GIC⭐︎』をカバーして「論争」になった件で、そのこと自体は1から10までどうでもいいのですが(そもそもTwitterにおける「論争」ほど中身の無く無価値なものはないので)、流れの中で「アイマスP」という単語が多く出ていたのが気になりました。というのも、「アイマスP」という主語で何かが語られているのを久しく見ていなかったからです。

 

アイマスP」と言う主語が出てくるのがどんなときだったかを思い返すと、真っ先に出てくるのはやはりTwitterの「論争」です。ライブで「厄介」行為が報告されたり、多数に問題とされる展開があったり、いわば炎上状態にあるときに「アイマスPは〜」という主語で始まる語りが多く見られると思います。ことさら「アイマスP」というコミュニティに執着がある一方で斜に構えているような人は「アイマスペー」「アイマスペェ(ここまでのはさすがに1回しか見たことないですが)」などと言ったりもします。合わせて「学級会」や「お気持ち」などの言葉もよく使われたりします(個人的にはこうした言葉を使い、語りをテンプレに押し込んで冷笑したところでなんになるんだと思いますが)。

 

アイマスに限らず、こういった大きな主語が出てくる状況には帰属意識が関わっていることが多いと思います。例えばライブというのは、コミュニティへの帰属意識が特に高まる場であって、そこで見られる不和というのは普段より特に強く感じられます。コンテンツの展開にまつわる諸々にしても、同一だと思われていた集団に大きく異なる意見を持った存在がいるということは、裏切りを感じさせ強い反発を生みます。逆に集団に対する敵対者が登場したときは、帰属意識が高まり集団への一体感が感じられますが、その過程で前述のような集団内不和が生じて内ゲバになったりもします。個人的にSNSというのはなんらかの属性の下に帰属することによって繋がりを得るものなので、こうした帰属欲求にまつわる諸々が特によく見られるのではないかと考えています(虚構の対立集団をでっち上げ、それを執拗に叩くことで逆説的に自陣の存在感を高める→帰属欲求が満たされるみたいな構図とか)。

 

最近「アイマスP」という主語の語りを見なかったのは、コロナ禍ライブなども無くコミュニティへの帰属意識が高まる場が無かったというのがひとつ。そしてアイマス内でも各ブランドでコミュニティが分散していて、アイマス全体への帰属意識が薄くなっていたという理由があったと思います。また、似たようなコンテンツが巷には溢れており、それらを横断して楽しむ人が多く、特定のコンテンツに帰属意識を持つということが以前よりも少なくなったというのもあるかもしれません。ちなみにその結果重宝されだしたのが「オタク」という属性で、今は大きく「オタク」という集団に所属しながら、「推し」を推すことで集団内での自意識を満たすというあり方が主流になっていると思います(元々オタクとされていた偏執的な存在から認識が変わり、今ではコンテンツを消費するだけで簡単に得られる属性になったというのもあるでしょう。これといった属性を持ち得ない人がSNSで繋がるために簡易に得られる属性として使いやすかったため、それがここまで広がったのだと個人的に考えています。そしてそこにもはまれない人がいくのが「民族」という属性)。これは「アイマスP」における「担当」のあり方と同じで、似たような「オタク」と「推し」の概念が広まった際に、それらとは違うのだと差別化する言説もありましたが、結局はより汎用性がある「オタク」概念に取り込まれてしまいました。

 

というわけで最近は「アイマスP」というコミュニティに対する帰属意識が薄くなっていたと思いますが、今回Vtuerコミュニティと対立構造が立てられることによって、久々に「アイマスP」という属性が浮かび上がってきました。これは双方にとって帰属意識を刺激するに足りうる存在ということでもあり、逆にVtuerコミュニティの広がりを感じさせます。

 

とはいえこれもその他の「論争」同様一瞬の出来事で、現在はほとんどの人が忘れ去っているでしょう。今後もこのような一瞬の盛り上がりはあるかもしれませんが、よほどのことがない限り「アイマスP」という属性がかつてのように盛り上がることは無い気がします。もし幻となった合同プロデューサーミーティングや、合同ライブが開催されていたら状況は変わっていたかもしれませんが、もう当分は無いでしょうし。Youtubeの「アイマスch」などは、かつてニコニコ動画を中心に存在したアイマスPコミュニティを公式で再現する試みだと思いますが、かつてほどの濃いコミュニティになるにはまだ時間がかかりそうです。

 

なんにせよ「アイマスP」であれ「オタク」であれ、一定の性質を持った集団というのは概ね虚構であり、そうしたデカい主語で何かを語ることの意味はほとんどないと考えていいと思います。ただ、SNSという場がある限り、○○vs△△みたいに対立構造をでっち上げて帰属欲求を満たすようなことは無くならないんだろうなあ。

 

こうしたSNS上でのコミュニティの動きについてはずっと考えていて、今回の件にかこつけて一旦まとめてみたという感じです。今回は曖昧な記憶とボンヤリした印象ばかりでしたが、いずれはもっとちゃんと色々調べてまとめたい気持ちはあります。しかしやる気になるのはいつになることやら。とりあえず途中で読むのが止まっている『コンバージェンス・カルチャー』を読まねば。あとアイマスのIP戦略の変遷などについても考えてることがあるので、それもまた気が向いたら。

 

 

それではこの辺で。

消灯ですよ。