『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』観ました。
前作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』のラスト、ヴィランのミステリオによって正体を全世界に暴かれてしまったスパイダーマン=ピーター・パーカーのその後を描く。
本作を語るうえで外せないのは、何よりも過去のサム・ライミ監督『スパイダーマン』トリロジー(以下無印)、そしてマーク・ウェブ監督『アメイジング・スパイダーマン 』シリーズ(以下アメスパ)とのクロスオーバーでしょう。かつてのヴィラン、ドックオクやグリーンゴブリンやエレクトロなどがキャストをそのままに再登場するというのは予告でも出ていましたが、それだけで終わるはずもなく、歴代スパイダーマンであるトビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドもピーター・パーカーとして再登場していました。
恐ろしい密度のファンサービスの塊である一方、ただの顔見せ同窓会とならない工夫もなされています。MCUの世界に迷い込んだ無印及びアメスパ世界のヴィランを「治療」して、元の世界で打倒される運命を変えようとするのが本作のストーリー。ファンサービスのためだけの復活にならないようにケアも万全です。
一方の先輩スパイダーマンたちも、失意のMCUピーターを自身の経験から慰めたり、落下するMJをアメスパピーターが救う、無印ピーターがゴブリンを助けるなど、それぞれ文脈を踏まえた活躍がしっかり描かれます。(3人の絡みでは、唯一体内からウェブを出す無印ピーターがイジられてたのに笑った)
過去キャスト再演にとどまらず、文脈にそった活躍もきっちり用意されていて、MCUピーターが「真のスパイダーマン」になる本作は、これまでの映画『スパイダーマン』を観てきた人にとってご褒美の極みのような作品でした……が。
繰り出される過去シリーズの文脈、そして「スパイダーマン」という物語からの文脈の波に圧倒されつつ、急に物語の外部から出てきた大量の文脈に「自分は今何を観ているんだろう?」という疑問が膨らんでいったのも事実。これまで「MCUは映画なのか?」的な批判には「面白いしいいじゃないか」と思ってましたが、今作を観ながら映画とはなんなのかちょっと考えてしまいました。
言ってしまえば本作の筋は、元はテリオとJJJが最悪というのがあるにせよ(未成年への名誉毀損として度を越している)、自分らの軽はずみな行動で起こった大惨事を自分で尻拭いするという、マイナスをゼロにするようなもので、お話がろくに進んでいない上に結果もだいぶマイナス。ヴィランの「治療」が能力を奪っていくというのは少しモヤモヤしますが「死の運命から助ける」ためなのでまあ良いとして、一方のMCUピーターは急に出てきた「スパイダーマン」という宿命に捕らえられて全てを失っていくわけです。「これで知ってる“いつものスパイダーマン”になったな」と思う一方、全然良い話には思えませんでした。「スパイダーマン」とは元々そういう物語だと言われればそれまでですが、これまで独自の歩みで頑張ってきたMCUピーターが、肉親を亡くして、大事な言葉を託されて、恋人が落下して.....と型通りの経験をしていく展開には、これまでの物語が無化されてキャラクターが消えていく感じがしました。もしくはシステムに取り込まれてしまった感じ。
近い物語構造のアニメ作品『スパイダーマン:スパイダーバース』では「誰でもスパイダーマン(ヒーロー)になれる」というポジティブなメッセージが感じられましたが、本作からは「スパイダーマンはかくあらねばならない」と型に押し込まれていく窮屈さを感じました。
まあ基本的には楽しみましたし、この異常な事態を劇場で体験できたのは良かったです。もう1回ぐらいは観てみようかしら。
個人的にはドラマ『ホークアイ』でキングピン出演という匂わせはありましたが、本作でデアデビル=マット・マードックがNetflixドラマ版のキャスト続投で出演した瞬間はめちゃくちゃ上がりました。今後の活躍が楽しみ。
そんな感じなので結局MCUからは逃れられそうにないです。逃れる気もないし。
それではこの辺で。
消灯ですよ。