尊重すべき日本のアイマス応援文化

アイマスライブにおけるいわゆる「厄介」論争について、書いては消し、また書き換えるということを繰り返しながら機を逸し続け、界隈が煮詰まっていくとともにだんだんと面倒にもなってもきましたが、一旦自分の考えをまとめておくという意味で、とりあえず出すだけ出しておこうと思います。


【目次】

1. なぜ「厄介」は厄介とされるのか
2. 厄介の境界
3. 「極端な人」のなり方
4. 尊重すべき日本のアイマス応援文化


1. なぜ「厄介」は厄介とされるのか

現在、アイマスライブにおいて「サイリウム・コール文化」は切っても切り離せないものとなっており、ステージ上のパフォーマンスと観客側のサイリウム・コール、全部をひっくるめて一つのエンターテイメントとなっています。大勢で一緒の行動をとって、それがピタリと揃うのはとても気持ちいいですし、演者ごとにサイリウムの色を変えたりするのは、会場全体でキャラクターのステージを作っているようで、他所にはない楽しさがあると思います。

しかし、何千何万という会場の規模では周りから逸脱した行動をとるおかしな人も当然出てきます。むしろそれだけの人数が居ながら全員が全く同じ行動をするような集団は、洗脳か集団催眠を疑わざるをえず、ある程度イレギュラーな存在がいる方が集団としてはよほど健全な状態といえるでしょう。

ライブにおけるイレギュラーな存在は、公演を妨害しようとしに来たのでなければ、彼らの「自分なりの楽しみ方」が多くの人たちのそれと大きく乖離しているために生まれます。この場合、周囲からすれば彼らはあくまで独立した「おかしな人」で、それぞれがそれぞれの楽しみ方をします。しかし一方、現在「厄介」と呼ばれている存在(UOをぐるぐるしたり、咲クラ、MIX、イエッタイガーをする人たち)は、複数人が同時に同じ行為をしていたり、どのライブでも同様の行為が見られたりと、特定の集団のように感じられます。また、それゆえに「厄介」という属性が出来上がったと思われます。

この「個人か集団か」という違いはかなり重要です。何に対して重要かと言えば、主に観客たちのアイデンティティに対してです。ライブという場所は、そのコンテンツやアーティスト、あるいはそのファンたちに対して帰属意識がこれ以上ないくらいに高まるところです。アイマスライブで言えば、会場の観客たちは互いを「アイマスP」や「アイマスファン」であり、同時に仲間であると認識しています。このとき、イレギュラーな存在が見られたとしても、それはあくまで「アイマスP・ファン」の中での多様性として認識されるため、「アイマスP・ファン」としてのアイデンティティは揺るぎません。しかし、イレギュラーな存在が「異なる文化を持つ集団」であった場合、「アイマスP・ファン」だけだと思われていた集団の中に別の集団がいることになるので、アイデンティティは大きく揺らぎます。同じものを好み、深い共通性を持っているはず(と感じられる)の者たちの中で生じる不和は、たとえ小さくても耐えられず、差異が誇張され、裏切られたと感じて強い反発を起こします。「厄介」が疎まれる原因は、「鑑賞の邪魔」というのもさることながら、この「集団内の不和」という点が特に大きいのではないかと思われます。

「鑑賞の邪魔」問題に関しては、そもそも現在アイマスライブで受け入れられているような、歌唱中に勝手に合いの手を入れたり、光りものを振るという文化も、基本的には総じて鑑賞の邪魔ですし、外から見れば「厄介」行為とそれほど大差ないように見えるでしょう。ではなぜそのような行為を皆好んでしているのかといえば、大きくは「本来歌って踊る職業ではない声優さんのステージを盛り上げるため」と「会場の一体感を楽しむため」の2つの理由からです。現在のアイマスライブではライブを重ねるごとに演者の力量も上がり、演出によるカバーが行われることも増えてきているので、現在はどちらかといえば後者の意味の方が強く意識されるでしょう。大勢が揃ってコールをし、サイリウムを振れば、物理的な一体感を感じ、さらにその中に自分がいると考えれば、同時に精神的な一体感も感じることができ、とても気持ちの良い体験ができます。

このように「会場の一体感を楽しむため」に来ている人間が多いライブ会場において、「厄介」と言われる行為を行う人は、基本的に会場全体から見れば少数派ながら微妙に揃っていたりするので、物理的な一体感は損なわれ、それにより同時に精神的な一体感も損なわれます。度々「厄介」に対して言われる「鑑賞に集中できない」というのも同じことで、表面上会場の統率が取れていれば、サイリウムもコールも「そういうもの」と認識し、特別意識することはありません。一方で全体から外れた行為は特に目立ちがちで、これを「意識するな」というのは無理があるでしょう(もちろんいわゆる「厄介」行為も慣れた人が見れば「そういうもの」として流すことができます。この辺りの意識の差も軋轢を生む原因かもしれません)。

「厄介」について、「そんなに嫌う人がいるのなら運営で禁止すればいいじゃないか」と思ったりもするのですが、「厄介」かそうでないかの基準というのは非常に曖昧なものです。ある行為を禁止したために、現在受け入れられている行為までやりづらくなったり、微妙にマイナーチェンジをされて結局いたちごっこになるなどのリスクもありますし、運営としてもアイマスライブの1つの売りとなっている文化を縛るような明確な禁則事項はなかなか作りづらく、2次創作と同様グレーにしておきたいところでしょう(あまりにも問題が頻繁に起こる状態になればその限りではないでしょうが)。

つまり、「厄介」を嫌う人たちにとっての根本的な解決(「厄介」の排除)は公式的には不可能であり、対処法は基本的に我慢するかTwitterで文句を言うくらいしかありません。ゆえに「厄介」は厄介な存在とされるのです。

2 厄介の境界

少数で揃った微妙に応援行為が「厄介」だと疎まれる人たちがいる一方、全体を巻き込んでその応援行為が定番化するような人たちもいます。この違いはどこにあるのでしょうか。

現在アイマスライブで「厄介」とされる行為は大抵「オタ芸」と広く認知されている行為とその派生です。「オタ芸」は簡単に言えば、どんなライブでも盛り上がれる応援行為のテンプレで、ノリも定まってないアイドルや声優のライブで盛り上がりたい時にはとても便利です。しかし、これはノリが定まっていないライブだから受け入れられ定着するわけで、ある程度ノリが定まっているアイマスライブのような場所で行われれば、単なる異物として拒絶されがちです。現在は声優ライブという比較対象で同じ行為が多々見られるため、余計に異文化感が強調されさらに拒絶も強まるでしょう。大抵の「厄介」とされる行為は、このように異文化であることが明確なために拒絶されます(逆にあまり知られていない行為であれば、定着の可能性も十分あるということです)。

一方でアイマス特有の行為でありながら「厄介」扱いをされるものもあります。具体的には『恋のLesson初級編』でやたらmachicoと連呼するもの、『Welcome!!』のサビで「〇〇(好きな声優・アイドルの名前)が大好きだ!」と替え歌をするもの(こちらは賛否分かれますが)などがあります。これらが厄介コール扱いされたりするのは、早い話が流行らなかったのに一部の人が無理に続けているからでしょう。

度々SNSで「厄介」報告やコール論争が広まったりするので、アイマス界隈はさぞ応援行為に厳しいのだろうと思ってしまいがちですが、実際のところはそんなに気にしている人は多くありません。大抵の人は一体感を得られれば何でもよく、会場で多数派と思われる方に同調しているだけです。2014年のSSA合同ライブの『ライアー・ルージュ』がいい例で、これを歌う志保のイメージカラーは白ですが、赤のサイリウムを振る人も目立ちました。これはおそらく、白のサイリウムが他の色の光に影響されやすく、赤い照明が用いられていたために赤いサイリウムが振られていると勘違いした人たちが、自分も赤いサイリウムを振り出したというだけでしょう。のちに「ルージュ」だから赤だという言説も出ますが、結局はこの勘違いに対する後付けです。

流行る・流行らないの基準はこの程度のもので、要は会場で多数派に見えて、その他の「一体感を得られれば良い」層を巻き込めるかどうかの問題です。machicoコールはその場で真似をするのは難しいですし、初披露時に多数派に見せかけられるほど人数もいなかったのでしょう。同じ曲中でも「L・O・V・Eラブリーmachico」というキャッチーな一節は、machicoコールの「厄介」認定を受けて若干のトーンダウンは感じなくもないですが、現在でもそれなりに定着しています(「machico」を「翼」に変えたバージョンも含め)。他にも演者の名前を叫ぶコールはありますが、どれもせいぜいワンポイント程度なので、それくらいが周囲を巻き込める限界なのかもしれません。

『Welcome!!』のコールも、構造的に同じながら定着している『フラワーガール』の「はーらみーが好っき」というコールと違って、それぞれが思い思いの名前を叫ぶので揃わず、真似はしづらい。アイマスに限らず、ライブに来る人の多くは会場の一体感を求めますから、揃わないコールが嫌われる可能性は非常に高いでしょうし、それが微妙に揃っていたりすれば、かえって気持ち悪いのでやはり嫌われるでしょう。

逆にオリジナルコールが流行った例として、「Happy Darling」の「応援するよ!」が最近では強く印象に残ります。私が初めてこのコールを聞いたのは、確かリリイベを経て2回目の歌唱となる8th福岡で、今ほどコールをしている人数はいなかったと思いますが、いい感じに音がなくなる場所だったことも手伝い、とても綺麗に聞こえました。その後の定着度は言わずもがなで、このようにキャッチーである程度の人数が行えば、よほどアイマスと関係ないものでない限り同様にオリジナルコールを定着させるのは難しくはないような気がします(一部で嫌われながらもクール系の曲にコールが入るように)。


3. 「極端な人」のなり方

ライブという大勢が統率の取れた行為をするような場所で、その流れに反した行動をするにはかなりのエネルギーが必要です。単にそれが間違いや勘違いによる行動だったのなら、普通は自分が浮いていることに気づいてやめるなり修正するなりするでしょう。もしくは、その場の空気を読むのが単に苦手な方というのも考えられますが、現在「厄介」と呼ばれている方々が複数人で示し合わせたように同じ行動をする様子を見ると、むしろ強い社会性を感じさせますから、それもないでしょう。そうなると、「厄介」と呼ばれる方々は「たまたま周りから浮いてしまった人たち」と言うよりは、半ば自分たちが「厄介」扱いされることを承知の上でそういった行為をする「確信犯」的な存在と考える方が自然な気がします。

意図的に周囲から浮く行動を取っているとして、次はなぜそんなことをするのかという疑問が出てきます。単純に「他の観客の邪魔をしてやろう」と考えての行動というならわかりやすいのですが、諸々の手間を考えるとあまり現実的ではありません。一般的には「自己顕示欲の表れ」という意見が多く見られますが、「厄介」が行う行為はおよそ決まりきったものなので、注目されるとしてもその人個人というよりは行為そのものに対してなので、目立とうとする人が行う行為としてはなんとも中途半端です(その点を勘違いしている可能性もありますが)。

他には「その行為をすることが心底楽しいと感じている場合」が考えられます。彼らが「厄介」とされる行為を「楽しい」と感じているのはまず間違い無いでしょう。それが楽しくなければわざわざ好き好んで周囲から外れた行為なんてしません。では何がそんなに楽しいのかを考えると、とりあえず大声を出したり体を動かしたりするのが楽しいことなのは言うまでもありません。ただ、それだけであれば会場の大多数が行なうようにコールをしてサイリウムを振れば事足りますし、むしろ周囲と合わせた方が会場との一体感を感じられて場合によっては帰属欲求も満たされるので、より気持ち良さが得られるはずです。

では、会場全体とは別の集団に帰属意識を感じているとすればどうでしょう。人間は多数派に流される生き物です。ましてライブのように何千・何万の人々がいる中で、自分だけ違う行動をしているような状況はとても耐えられません。しかし、幾人かでも同じ行動をしている仲間がいれば話は別です。仲間がいれば自分の行動に自信を持つことができ、自分たちが少数派であればあるほど仲間内での結束も強まり、帰属欲求もより満たされます。そう考えると「声を出し、体を動かし、仲間内での一体感を楽しむ」という点では、アイマスP・ファンがコールをするのと本質的には何も変わらないように思えます。

ひとまず「厄介」の人たちはアイマスP・ファンではない集団に(少なくともライブ中は)帰属意識を感じているとして考えを進めます。「厄介」の方々がどこに帰属意識を感じているのかを考えたとき、近年激増している声優ライブの存在は絶対に避けて通れないでしょう。「厄介」とされる行為の元は「オタ芸」であり、それは新興の声優アイドルやアーティスト、及びそれに準ずるコンテンツのライブにおいて、どのライブにも流用することができ、どこでも盛り上がれて一体感を得ることができるため、とても重宝します。

ただ、複数の場所で同じ行為を繰り返していると、だんだんと各ライブ間の境界は曖昧になっていき、「声優のライブではオタ芸をするのが当然である」という固定概念が出来上がっていきます。そのようなことを繰り返した人間に出来上がるのは、「〇〇のファン」などではなく言わば「声優オタク」としてのアイデンティティです(この「オタク」という概念についても言いたいことがたくさんありますが、ここでは割愛します)。人間は一貫した存在であろうと行動しますから、同じ声優ライブだとしても「オタ芸」とは別の文化が育っているアイマスライブのような場所に来ても、他の声優ライブと同様の行為をします。そうしなければ「声優オタク」としてのアイデンティティが揺らいでしまうからです(特にアイマスライブはライブのフォーマット的にも他の声優ライブと近いので)。かつてはアイマスライブに耽溺し、その文化を受け入れていたとしても、他の声優ライブに通い「声優オタク」としての文化を受け入れれば、前述の一貫性の問題から最新の価値観が優先され、同時に過去の価値観を否定するようにもなります(現在の自分が「本当の自分」だと思えば、意志の変化も受け入れられるからです)。ミリオンのライブが比較的厄介が多いとされるのも、キャストが個人でアーティスト活動をしている割合が高いため、そちらを追ううちに「声優オタク」としての心理変化が起こる確率が高いからなのではないでしょうか。

ここで問題なのが「目的と手段を混同しがち」という点で、そもそもオタ芸は「皆で盛り上がって一体感を得られる」から楽しいわけですが、転じてオタ芸それ自体が重要な行為だと錯覚してしまう場合があります。オタ芸そのものが楽しいものと思いこみ、自身の「声優オタク」としてのアイデンティティを強く実感するための儀式のような行為になるのです。こうなってしまえば、その行為を否定されること=自分自身を否定されることと同義になってしまうので、否定してくるものたちへの反発も非常に強くなります。そして、より熱を持って行為に及ぶようになり、それがまた反発を呼び...と本来の目的から離れて負のサイクルになってしまいます。これは「声優オタク」に限ったことではなく、「アイマスP」にしても同様で、上記のサイクルにより「アイマス警察」になったりもします。

「厄介」と「アイマス警察」のように極端な対立構造が出来たりすると、全体としてもそのどちらかしかないようにに感じてしまいがちです。そうなれば、全体のほとんどを占める「どちらでもない層」までその流れに引っ張られて、「厄介」を排除されて当然のように扱ったり、別に「厄介」ではない人でも「アイマスP」に対し斜に構えて「アイマスぺー」や「アイマスペェ」という珍奇な呼称を用いたりするようになったりします(「ペェ」までいくと一周回って可笑しみを感じますが)。

何にせよ極端な方向へ向かっても、そこで得たアイデンティティと実社会との齟齬で苦しんだり、ライブに行けないことでアイデンティティが喪失したり、周囲との軋轢で嫌になったりと、あまりいいことはないと思うのでオススメはしません。


4. 尊重すべき日本のアイマス応援文化

アイマスライブは度々論争も起こりますが、実際のところは割といい加減で、でもそれは逆に新しいことが受け入れられる土壌があるということでもあります(条件さえ揃えば)。それはアイマスライブの中でも特にいいところではないかと思います。「厄介」論争のあおりでなかなか新しいことを取り込みづらい空気になっていますが、あまり決めつけず、今後も新しいことを取り込み続けるという姿勢が尊重されていければ良いなあと思います。


(おわり)