満を持しての最終回。あらゆる伏線や布石が回収され(サブタイトルまでも!)、これまでの幾原作品の中でも屈指の爽やかな着地を見せてくれました。
今回でこの作品が何を描いてきたかが一気にハッキリしてきたので、いくつかのポイントに分けて書いていきたいと思います。
さらっと目次
・『さらざんまい』のテーマは
・カッパとカワウソとは
・自己犠牲について
・㋐の意味
・『さらざんまい』のテーマは
これはもう終盤のカッパたちと春河の会話が全てを語っています。
「形あるものは、いつか割れて、失われます」
「しかし、行く先が常に明るいとは限らない。希望も絶望も命とともにあるのだから」
「大切な人がいるから、悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね」
「そうやってボクらはつながっているんだね」
生きていれば誰かとつながる。誰かとつながれば、欲望に飲み込まれたりもする。そうやってつながりは疎ましい呪いになり、絶望を生む。それでも生きていれば、つながりは愛になり、希望を生むこともある。その両方があるからこそ、人生は愛おしい。
言ってしまえば『さらざんまい』は幾原監督流の人間賛歌だったのです。
こう言葉にしてしまうと陳腐も聞こえてしまいますが、幾原監督の作品はいつも物語を通じて、そういったストレートなメッセージをカタルシスと共に叩きつけてくるので、これがもう心の底から感動してしまうのです。この最終回に全部分かっていく感覚を味わうために、ここまでウンウン考えながら観てきたようなものです。
そしてこのテーマを念頭に置くと、よく分からなかった言葉やモチーフについても、非常に理解しやすくなります。
例えば「はじまらない、おわらない、つながらない」の円。これを逆に考えれば、始まりがあって、終わりががある。そしていつも繋がっているとなりますが、これはまさしく「生きること」そのものです。となれば当然、その対義語である「はじまらない、おわらない、つながらない」は「死」となります。そしてこの「死」は物理的な死というよりも、この世界から消えてしまう感覚、ピングドラム風に言えば「透明になること」と言えるでしょう。
つまり最終話クライマックスにおける一稀、悠、燕太の3人は、一種の臨死体験を通じて、逆に「生の実感」を抱き、「つながりたい=生きたい」と強く欲望できたからこそ、絶望の中から生還できたのです。
他には「水」というモチーフ。これはストレートすぎて逆に分からなかったりもしましたが、ここまでくれば完全に「命」の象徴であり、それが流れる「河」は「人生」であることが分かります。思えば始めから「泳げ人生 つかめ栄光(サクセス)」なんて歌ってましたしね。「欲望の河を渡れ!!」なんかは多分「生きろ!!」と同義です。
未来の「漏洩」シーンなんかもこの一連のテーマを端的に表していて、特にこれまでのキャラに沿っていたサブタイトルが反芻されるのは、それらが一稀、悠、燕太それぞれ個人を示すだけではなく、誰の身にも起こりうる普遍的なものであることを示していると思われます。
このように様々な台詞やモチーフとしてちりばめながら、『さらざんまい』はつながり=生、そしてそれを欲望することを描いていたのです。
・カッパとカワウソとは
カッパ=つながり=生
カワウソ=分断=死
生き物を諸々の描写からして、だいたいこの辺りの象徴だと思います。カッパは「さらざんまい」で繋がらせ、カワウソは繋がりを断とうとする。カッパは人をカッパにするが、最終的には復活できる。カワウソは人を殺し、自分の欲望を満たすだけのゾンビにする。ゾンビが消えれば存在自体消えてしまう。
カッパが「つながり」や「生」といった「人間的なもの」を象徴する一方、カワウソには「分断」や「死」のような「非人間的なもの」を見ることができます。それぞれが空想の生物であるカッパと現実のカワウソにあてられ、全く逆の描き方がされている点も興味深いです(ケッピはどこまでも生々しく、カワウソはひたすらぼんやりした存在に描かれている)。
これは両者の「欲望(尻子玉)搾取」のシーンにもよく表れています。ケッピが直接人を飲み込み、なんかぐちゃぐちゃした中で行われるカッパに側に対し、カワウソ側は機械によってシステマティックに行われます。
そして極め付けはカワウソが自らを称して言う「概念」という言葉。
「概念」とだけ言われても、解釈は無限にできるので一概には言えないと思いますが、これを「システム」と読みかえれば、割と腑に落ちる気がします。
もしくは『魔法少女まどか☆マギカ』の鹿目まどかなどを連想してもいいと思いますが、要は「つながり」を分断し、人を自分の欲望を満たすだけの存在にしてしまうシステム、ムード、または現象、あるいは風潮のようなそういったものを総合した「概念」が、この作品における「カワウソ」なのではないでしょうか。過去の幾原監督作品における「世界の果て」「渡瀬眞悧」「透明な嵐」とも連続性を感じさせますが、今回の「カワウソ」はこれまでで一番抽象的に描かれています。
それはやはり、トランプの台頭に象徴される「面倒なつながりは断ち、自分の欲望だけ満たされれば良い」とでもいうような、現実の社会のムードが根底にあるからではないでしょうか。
このムードは誰か一人の悪者や、悪の秘密結社のようなわかりやすい「敵」が旗を振っているようなものではなく、それこそ「概念」のようにぼんやりした流れから起きているものです。しかしそのムードは現状世界中で広まっており、「カッパがカワウソに滅ぼされた」というのはまさにそれでしょう。
その中で再び「つながり」を取り戻そうとすることを戯画化したのが、今回の『さらざんまい』における「カッパ」と「カワウソ」だったのではないでしょうか。
・自己犠牲について
今回の『さらざんまい』では、「自己犠牲」を明確に否定する台詞があったことから「過去の幾原作品のアップデートだ」とも言われてもいますが、本当にそうなのでしょうか。
過去の幾原作品も大好きな身としては、過去作を否定するような言説はにわかに受け入れがたいので、ちょっと理屈を捏ね回してみたいと思います。
まず大前提として、過去の作品において本当に自己犠牲が肯定されていたのか。
この場合に言われる「幾原作品の自己犠牲」は、おそらくほとんどの作品に共通する「主人公が世界から消え、その代わりに世界が革命されたり、何らかの奇跡が起こる」というエンディングを指していると思われます。特に『輪るピングドラム』における、高倉兄弟が消えて陽毬が助かったり、苹果が「運命を乗り換える呪文」を唱えた代償である「蠍の火」を晶馬が肩代わりしたりとか、その辺りの印象が強いのでしょう。
しかし『ピングドラム』において、自己犠牲のような「一方的に分け与えること」は、一時的な解決にしかならない、恋のようなもの、初めてのキスのようなものであり、根本的な解決は「分け合うこと」によってもたらされます。
『少女革命ウテナ』でウテナが消えるのは、アンシーを助けようとした結果であり、消えることでアンシーを助けようとしたわけではありません。
『ユリ熊嵐』にいたっては、「幾原邦彦展」に寄せたコメントで監督自身が「自己犠牲で何かが変わるという風にはしたくなかった」と語っていますし、そもそもあの「同じになる」という選択を「自己犠牲」と取るのは難しい気がします。
とはいえその中でも誰かを助けようとした結果死んでしまったり、「俺に構わず先に行け!」的な、広い意味での「自己犠牲」は描かれている気がしますが、少なくとも始めから自らの命を差し出すような「自己犠牲」は、過去の作品においても肯定はされてなかっと思います。
むしろ今回の『さらざんまい』で変化したように感じるのは、これもどの作品にも共通する「主人公が消えて、残された者の心に変化が起きる」といった、主人公が自らの想いを貫いて世界の外側に行ってしまい、大抵の人々は主人公のことを忘れてしまうが、「分かる人には伝わっている」という描写の方です。
今回の「つながり」というテーマを考えると、主人公が「ここではないどこか」に行ってしまうような描写は、「分断」を示しているようにも取れてしまいますし、「人間賛歌」という点から見ても、「どこでもないクソみたいな“ここ”で生きて行く」とした方が、確実に筋は通ります。
つまり、そのような描写の変化はありますが、これは扱ったテーマの要請によるもので、必ずしも過去の否定ではなく、「自己犠牲」についても、始めから別に肯定されていないと私は考えます。
まあ、この辺はただの自分のための言い訳かもしれません。でも今回の『さらざんまい』含め、幾原作品は全部大好きなので仕方ないのです。
・㋐の意味
ここまでで大体大きなところは回収したと思うので、後はおまけの小ネタ回収です。
まずは結局直接言及されることがなかった㋐の看板について。
第一皿の感想でも書いた通り、これはこの最終話を観ればいよいよ明らかだと思いますが、やはり㋐は「つながり」の象徴です。
街のそこらじゅうに㋐があるのは「この世界はつながりに溢れている」からですし、欲望の対象が「つながり」である最終決戦時の吾妻橋@欲望フィールドにも㋐が並んでいます(ちなみに10話のレオマブの時は、歌は「つながり」になっていますが欲望の対象は「マブ」なので、人形焼が置いてあります)。
そして何より最終話で2度反復された㋐の看板が落ちてくるイメージ。
1話の夢のシーンで登場した際は、非常に不穏な形で表現されていましたが、あれは春河の事故で「つながり」が呪いになってしまったことを示しているため、あのような形になったのでしょう。
一方最終回で登場するのは、まず過去の一稀にミサンガを届けるシーン、そして悠が橋から飛び降りるシーンの2回ですが、そのどちらにもポジティブなニュアンスが感じられます。これはつまり「つながり」が希望として働いていることを示していると思われます。前者はまさに3人がつながっている姿と重ねて描かれていますし、後者は刑務所で一旦つながりが消えてしまった悠(なので町には㋐の看板がない)が、それでもつながろう=生きようと決心した時、㋐が悠の体を通過し、直後に一稀と燕太が迎えに来ます。
オープニングで迫ってきたり転がったりすれ違ったりする㋐の円の中にも「TSUNAGARITAI」とか書いてありますし、㋐=「つながり」なのは確かだと思います。「愛」の頭文字だという読みもありますが、「愛」と「つながり」は近しいところにあるので、そこまで違いはないとは思いますが、上記の諸々から「つながり」の方が正確な気がします。
それで頭文字でないのならなんで㋐なのかですが、これはまず都営浅草線のシンボル(これはラジオで言っていました)、そして「@」を掛け合わせポップにしたものだと思います。
メールアドレスにおいては、そのアドレスがどこにつながっているかを示しているとも読めますし、何よりTwitterにおいては非常に重要な記号です。Twitterはレオとマブのアレで重要な使われ方をしていましたし、確実に意識されていますから、そんなに遠くはないんじゃないでしょうか。
ついでに「尻子玉」について書きますが、これはSNSのアカウントと考えるのが一番近いと思います。特に10話でマブの尻子玉(リング)が円の外側に弾かれてツイートが消えていったのを見ると、やはりそのように描かれている気がします。しかしマブの尻子玉は消滅していないためアカウント自体は残っていると考えています(詳しくは第十皿の感想で書きました)。
というわけで㋐は「つながり」の象徴、そして「尻子玉」は現実にあるつながりを示していると思います。
そんなこんなでいろいろ書いてきましたが、最後の最後でようやく考察っぽいことができた気がします。
もっと細かく見てけば、他にも書けることは沢山ある気がしますが、それをやってるときりがないので、とりあえずこの辺で止めときます。小説の下巻とかその後の情報とかでネタができればまた書くかもしれません。
そしてここまでいろいろ書いてきたことについては、あくまで私の解釈であって、他にも人によって無限に解釈があると思います。こういうのはクイズじゃないので、正解を求めても仕方ないですし、こうやってごちゃごちゃ考えること自体が楽しいのですから。
何より、いつもちゃんと考えて視聴者が考えられるような作品を作ってくれる幾原邦彦監督には感謝しかありません。しばらくは『さらざんまい』の余韻に浸りつつ、その後は過去作も見返しつつ、また新作をやってくれるのを楽しみにして生きていこうと思います。
それではこの辺で。
グッドサラーック!