『さらざんまい』第6話感想と考察っぽいやつ

さらざんまい第六皿



吾妻サラの変装が春河にバレ、尻子玉の奪取にも失敗、人間にも戻れず、ドン底の状況で「もう春河とは関係ない」と自暴自棄になる一稀。しかし「帝国」に攫われた春河を救うため奮起、仲間に助けられながら懸命に走る「これぞ少年漫画」な王道展開には、やはり胸を打たれます。そして何より最後の笑顔。極め付けのタイトルは

「つながりたいから、諦めない」

ターニングポイントになる回とは思っていましたが、重要な背景が明かされるわ、伏線回収されまくるわ、一稀が一気に葛藤を乗り越えるわで、もはや第1部最終回といっても差し支えないエピソードでした。

そして今回、話が大きく展開し、また様々な情報が明かされたことで、この『さらざんまい』という物語の構造がかなりクリアになってきました。


「欲望」か「愛」か

春河の心にあったものは「愛」で、それゆえにシステムから弾かれ、命が助かりました。逆に言えば、これまで登場したカパゾンビの基になった被害者たちにあったものは「欲望」ということになります。春河と被害者たち、「愛」と「欲望」を分けるものは何か。

それは春河が一稀(サラ)に送ったメッセージに顕著に表れています。

「あれからかずちゃんは笑わなくなって、ミサンガも捨てちゃった。全部ぼくのせいだって知ってたけど、かずちゃんと一緒にいたくて、笑ってほしくて。かずちゃんがぼくにしてくれたこと、すっごく嬉しかった。だからね、ぼくは諦めないよ。かずちゃんは戻ってくる、また笑ってくれるって信じてるんだ」

春河は何よりもまず「一稀に笑ってほしい」と、一稀のことを第一に考えます。対するカパゾンビたちが考えているのは皆「自分」のことばかり。「箱を被りたい」「猫のように愛されたい」「キスを釣って三枚におろしたい」「残り湯で蕎麦を茹でたい」「大事な人の香りを嗅ぎたい」すべて主体となっているのは、どこまでも「自分」です。そしてそれは一稀も変わりません。

一稀は今回、春河を救うため自らの「尻子玉」を差し出そうとしますが、その際一稀はこう語ります。

「僕がいなければ、全部うまくいく。これは最後のチャンス。繋がれない僕が、償うための...」「僕が望んだことなんだからほっといてよ!」「僕なんかいない方がいいんだ!」

この「尻子玉」を差し出す行為は、一見春河のための美しい「自己犠牲」のように見えますが、「僕が」「僕が」と結局のところ自分の後ろめたさを解消したいがため、甘美な自己憐憫に浸りながら、自らの「欲望」を満たすだけの行為に他ならないのです。

「自己犠牲」はこれまでの幾原監督作品にも度々登場する展開ですが、それについて『ピングドラム』の最終話で次のように言及されています。

「つまり、リンゴは愛による死を自ら選択したものへのご褒美でもあるんだよ」

一稀が選択したのは「愛による死」などではなく、自らの「欲望」を満たすための行為であり、つまりこの一連のシーンは、過去の幾原監督作品の否定ではなく、「自己犠牲」の持つ危うさに、自ら警鐘を鳴らすための展開だったのではないでしょうか。少なくともただ「自己犠牲」を否定するものではないのは確かです。なぜなら、春河を助けに行く道中、燕太と悠が行う「俺に構わず先に行け!」的な行為もまた、紛れもない「自己犠牲」なのですから。


「カッパ」と「カワウソ」

今回「カッパ王国」と「カワウソ帝国」の戦争の歴史が明かされましたが、この「カッパ」と「カワウソ」が意味するものは何か。

唐突ですがここで一旦『星の王子さま』について考えてみましょう。

星の王子さま』はご存知サン=テグジュペリによる小説で、「星の王子さま」と操縦士の「ぼく」との交流の中で「本当に大切なものは目に見えない」と説きます。そして大人にはそれが分からないのだとも。

そしてもう一つ、劇作家・寺山修司率いる劇団「天井桟敷」で上演された、同名の『星の王子さま』という戯曲があります。こちらでは、いつまでも『星の王子さま』の世界に耽溺し、「見えないものを見ようとする」あまり「見えるものを見ない」人間を揶揄した、批評的な作品になっているそうです。そしてこれがまさに、かの『少女革命ウテナ』に強い影響を与えているのです。

(...なんて得意げに書いていますが、私がこれを知ったのもつい最近で、だいたい春河の発言から『星の王子さま』について調べてた中で見つけたこちらのブログの受け売りです。こちらのブログは非常に分かりやすくまとまっていて、大変参考になりましたので是非読んでいただければ。)

受け売りを続けますが、続く『少女革命ウテナ』では「見えるものを見てしまって」なお「見えないもの」を見ようとすること。そしてそれが世界を革命するということを描いています。

ここで対比される「見えないもの」と「見えるもの」。これはそのまま「虚構」と「現実」、「理想主義」と「実利主義」、そして「ディオス」と「世界の果て」、「桃果」と「眞悧」、「スキ」と「透明な嵐」などに置き換えられると思います。

そして今回の『さらざんまい』におけるそれが「カッパ」と「カワウソ」なのではないでしょうか。

空想上の生物である「カッパ」と、実在する生物である「カワウソ」。そして「カッパ」は「カワウソ」に滅ぼされている。これはまさに現代の状況であり、幾原監督が繰り返し描いてきたことでもあります。

第六皿までに「カッパ」的価値観が一通り描かれましたが、続く後半ではレオとマブを中心とした「カワウソ」的価値観が描かれ、その戦いの中で「カッパ」的価値観を貫けるかどうかが問われてくることでしょう。

またそうなると、「カッパ」と「カワウソ」に「愛」と「欲望」を重ねたくなるのですが、どちらも「欲望」を求める存在であり、必ずしも「欲望か愛か」の対立項と一致するわけではなさそうです。

むしろ対象的なのは「欲望」の使い方で、「欲望」を消化し「希望の皿」に変換できる「カッパ(ケッピ)」に対し(これについて直接的な言及はありませんが、現状そう考えるのが自然かと)、「カワウソ」サイドは人間をゾンビにして「欲望」を際限なく集めさせます。「カワウソ」サイドが「欲望」をどのように利用しているのかが分かれば、この対比が意味することもさらに見えてくるかもしれません。

ついでに言うと、玲央が呟く「未来は欲望をつなぐ者だけが手にできる」という言葉、これは「尻子玉」を共有・消化し「希望の皿」を生み出す「さらざんまい」のことを指しているように思われますが、その辺りも今後の展開で気になるところです。


「つながり」について

正直なところ、この「つながり」についてはまだピンときていません。作品のキャッチコピーから、登場人物のセリフ、監督のインタビューに至るまで、とにかく頻繁に登場する「つながり」という言葉ですが、ここまでの展開の中では、モチーフとして扱われることはあっても、それそのものについて描いた展開はまだ無いように感じます。これだけ「つながり」を押している作品ですから、その辺りの核心に迫っていくかどうかも、後半にかけての見どころになりそうです。

一応「はじまらず、おわらず、つながれない者たちよ」「はじめからおわりまで、まあるい円でつながってるよ」「人間は、尻子玉でつながっていますケロ。それを失うと、誰ともつながれなくなって、世界の縁の外側に弾かれるのですケロ」などと、セリフの端々にヒントは与えられているとは思うのですが、これらの言葉をつなぐには、まだイマイチ材料が足りません。

また同様に解釈に迷うものとして「水」があります。監督もしきりに「水を描きたかった」と語っていますし、カッパもまず「水」ありきの発想だそうで、重要なモチーフのはずなのですが、未だにその役割が見えてきません。こちらも「つながり」と同様、隅田川からゾンビからでる汁まで、頻繁に描かれるのですが、やはり解釈のための材料が足りません。

今回まで「欲望」についてはある程度描かれてたことを考えると、まだ本質が見えてこないこの二つが関連して描かれるような気もしますが、こればかりは話が進んでいかないと見えないところでしょう。


ほとんど最終回のような第六皿でしたが、とは言えまだまだ謎が残されていますし、一稀・燕太・悠の3人と、レオとマブの2人のつながりがどこへ向かうのか、まだ決着は付いていないので、後半も楽しみに観ていきたいと思います。

それではこの辺で。

グッドサラーック!