『さらざんまい』第10話感想と考察の兆し

さらざんまい第十皿



レオもマブも死んだ。

ただし、これまでのゾンビたちと違い、世界の縁から弾かれた真武のタグが「はじまらない、おわらない、つながらない」の円からも弾かれ、玲央のポケットに、玲央が悠に撃たれた後はレオのタグとつながって存在しているので、完全に消えた訳ではなさそうです。

あの「はじまらない、おわらない、つながらない」のカットは、尻子玉を失ったゾンビが世界の縁から弾かれるシーンで、つまりあのタグは尻子玉と同一のものであると思われます。では、玲央はともかく、尻子玉を抜かれた真武のタグが残っているのはなぜかと考えると、ゾンビとして尻子玉を抜かれた後にカッパとなって、玲央と「さらざんまい」を行なった為ではないでしょうか。主人公の3人にしても、尻子玉を抜かれてカッパになる→ゾンビの尻子玉を共有して人間に戻るということをやっていた訳で、真武もそれにより尻子玉は戻って、ただしゾンビになって一回死んでいるので世界の縁からは弾かれた、という気がしますが、細かいところは正直まだよく分かりません。

ここ数話で強く強調され始めた「命」と「つながり」ですが、今回のレオとマブの決着を見る限り、「命」が消えることが即「つながり」が消えることにはならない、という辺りにいくのかなあと思いました。

また、燕太の台詞によってより明確に否定された「自己犠牲」ですが、特に一方的に命を投げ出すような行為は、これまでの作品において決定的な解決には繋がっておらず、最終的な解決としては『ピングドラム』にしても『ユリ熊嵐』にしても、命や価値観を「分かち合い、共有すること」だったので、やはりその辺りについては明確な線引きがあるのでしょう。

そして今回明らかにされた「黒ケッピ=絶望」ですが、「ケッピ=希望」と対立するものかと思えばそうではなく、ケッピは「黒ケッピと融合してカワウソを倒す」と語ります。また同時に春河も「欲望か愛かなんて選べない」と語っており、今作『さらざんまい』はどうにもそういった単純な二項対立=分断にこそNOを突きつけるようなものになっていく気がします。その上あえてで分かりやすく対立項を作るとするなら、「つながり」に対する「分断」で、これをそのまま「カッパ」と「カワウソ」に当てはめると割合腑に落ちます。

例によって細かいところも、マブゾンビがはじめから後ろを向いてるのは気持ちを知って欲しかったからだろうとか、玲央が尻子玉を奪う件が完全に戯画化されたアレだとかありますが、泣いても笑っても次回が最終回ですから、後はただこの物語の行く末を見届けた後に考えましょうかね。


それではこの辺で。

グッドサラーック!