『さらざんまい』第9話感想と考察の風味

さらざんまい第九皿



燕太に続き、悠を庇って凶弾に倒れる誓。これで燕太、誓、真武の3人とも死亡、及び生死の境に居る状態になってしまいました。それに対応して、一稀、悠、玲央の3人ともがそれぞれに希望の皿を求める状況になり、物語はいよいよ混迷を極めます。

終盤に向けて、情報量がどんどん増えていきますが、今回は何よりもまず久慈兄弟でしょう。

兄の非道(「世話になった」という燕太に対する冷淡な態度や、舎弟・マサに対する仕打ちは特に)を見てなお、「兄さんのそばに居られるのは俺だけだ」と兄を助けようとする悠。一方、「持ち弾は早めに使い切る主義」と周囲のつながりを切り捨てながら生きつつも、一番大きなつながりである弟のことは最後まで切り捨てられず死んだ誓。「この世界は悪い奴が生き残る」と嘯く誓の生き方にとって、「家族」というつながりは即刻弱点になりうる存在のはずで、実際悠のことも時には疎ましく思い、遠ざけようともしていましたが、最後まで切り捨てることができなかった。それは、まさに彼の持っていた悠を除いて黒塗りにされた家族写真に象徴されています。つまり誓は「つながりたくないけど、つながりを断てない」というアンビバレントな存在だったのです。ただそれもまた「家族」がもたらす普遍的な感情でしょう。

つながれない存在であるカパゾンビしかり、今回の誓しかり、第六皿の尻子玉の説明でもありましたが、やはりこの世界では「つながり」がなくなることは即ち死を意味するようです。そしてそれは、このアニメのコピーである「手放すな、欲望は君の命だ。」と全く一致するもので、ここで言う「欲望」とはつまり「つながり」とほぼイコールだと考えられそうです。

この作品の大前提となっているSNS(の中の)社会を考えても、誰ともつながれなくなったり、または忘れ去られて過去のものになったりすれば、そこでは初めから存在しなかったも同然です。逆に誰かとつながっている限り、そこでは生きていることになる。この物語自体もまた、SNS社会の戯画化であることがいよいよ明確に示されてきた気がします。

そして今回誓の死とともに印象深く描かれた「水」。特にCパート、船のシーンはモノクロームの夜景、回送の渡し舟、懐に忍ばせた金(冥銭)と、完全に三途の河のそれでしたし、「水」は「命」と密接に関係していそうです。まだいかんせん材料が少ない気もしますが、この辺りはティザーPVにも暗示するコピーがありましたし、もう少し描かれる気もします。

他にもキャラクターそれぞれの動きや、生死を彷徨う人間たちに対して、粉砕されても余裕で復活するケッピなどについても考えたいところなのですが、まあそれをやってるときりがなくなってきているので、今回はこの辺で。


グッドサラーック!