『さらざんまい』第4話感想と考察もどき

さらざんまい第四皿



燕太が徹底的にイジり倒され、終始コミカルだった第三皿から一転、悠がメインとなる今回は、非常にシリアスな話が展開されました。「この世は悪い奴が生き残るんだ」と、家族の為ならどんなダーティーな手段も厭わない悠の兄・誓は、まさに『ピングドラム』の冠葉を連想させるようでした。

ともかくこれでメインキャラ3人の凡そのバックグラウンドは明かされ......てはおらず、まだ肝心の一稀が残っています。

第一皿、第二皿と一稀の過去が漏洩していますが、女装にしても猫にしても未だ「なぜそこまでするのか」という謎の一端すら明かされていません。そしてそれは、次回・次次回あたりで吾妻サラの握手会をめぐるすったもんだと共に、ある程度は明かされることでしょう。

というのも、ちょっとメタ的な話になりますが、映画やドラマ、アニメなど、ある程度尺の決まった物語では、だいたいお話の真ん中にまさしく「ターニングポイント」が置かれます。幾原作品だけで見ても、『ピングドラム』で高倉家に纏わる因果が明かされたのは中間に当たる11話・12話ですし、『ユリ熊嵐』では同じく中間に当たる6話で「透明な嵐」を抜け、銀子と紅羽が急速に接近します。『さらざんまい』のノベライズが6話で区切られているのもまさにそこで、6話まで行けば物語に必要な材料がかなり提示されることでしょう(一応確認のために電子立ち読みで確認したら、目次から微妙に漏洩を食らった)。

ただそこはあくまで「ターニングポイント」であって「エンディング」ではないので、後半の展開こそが重要になるのは言うまでもありません。燕太を演じる堀江さんもラジオで「燕太はもう一山ある」と発言していますし、6話まで行っても、それぞれまだ明かされてないエピソードがあるでしょう。


まあそんな展開のことばっか考えててもキリがないので、今回も重箱の隅を突いていきます。


まず悠10歳の回想(×海藻)シーン。部屋中に溢れる意識高い系メモとサッカーグッズ。悠はかつてサッカー少年だったらしいことが分かります。また急に出てきた感もありますが、第三皿で悠が軽くリフティングして見せるシーンもあり、一応の目配せはありました。

こうなると、昔一稀と燕太と一緒にプレーしていたのか?と考えたくなりますが、部屋にかかっていた悠のユニフォームの背番号はエースナンバーの「10」で、第三皿の回想(×海藻)で一稀が付けていたのも「10」だったため、少なくとも同じチームではなかったのではと思われます。

また、悠の部屋に貼られていたサッカー選手「Lionel KaPPa」(多分メッシのもじり)のポスター。壁に貼られたメモには「いつかサッカーの神様と」などと書かれたものがあり、それがこのポスターの選手かと思われます。

それでポスター繋がりで言うと、一稀と春河の部屋に貼られた吾妻サラのポスターの上とかに、いくつかポスターを破ったような跡があるのです。よく見ると第一皿からあるのですが、今回の序盤で特に分かりやすく確認できます。これはちょっとこじつけ感がありますが、悠の部屋と同じサッカー選手のポスターが元々そこにあったのかもしれません。

単純に考えれば、一稀がサッカーを辞めるとともに剥がしたと思われますが、深読みすれば、その選手に纏わる何かでサッカーを離れた可能性もあります。まあそもそもいつからあの部屋に一稀と春河が一緒なのか分からないので、なんともいえないんですけど。

悠の部屋に話を戻すと、机の引き出しに「チカイ」「トオイ」と、そこが誰の引き出しか示すようなシールが貼っているのですが、その中に一つ「オレ」と書かれたシールが貼られた引き出しがありました。誓の上にさらに兄がいるのか、また別の人物か、はたまた別の意味があるのかは分かりませんが、部屋中に貼られた意識の高い言葉の数々が悠10歳にしても、誓にしても、どうにもイメージに合わない(少なくとも悠10歳の一人称は「僕」で壁の言葉は「オレ」なので悠が書いたものではなさそうです)。両親が亡くなる前の誓がそういう熱血漢だった可能性もありますが、二人とはまた別に熱血漢の人物がいたとなった方が腑に落ちます。

少なくとも、一稀と燕太だけでなく、悠にも関わってきて、キャラ設定という以上に「サッカー」が重要な役割になりそうな気配が増してきました。

第四皿から読み取れる大きな情報はこれくらいでしょうか。

さらに細かいところで言えば、悠が一稀の女装にグッときはじめたとか、誓が従うチンピラ「由利鴎」の舎弟「安田ヤス」は明らかに挙動がおかしい上に何故か檜山修之さんが声を当てているのでまた出そうだぞとか、燕太が完全にコメディリリーフになったとかがありました。

あっ、大事なところを忘れていました。一稀の「僕は春河が嫌いだ」発言。まあこれは前作『ユリ熊嵐』でも「わたしたちは最初からあなたたちが大好きで、あなたたちが大嫌いだった」なんて台詞があったり、まさに春河と同じく釘宮さんが演じる「みるん」と「るる」のエピソードでそこが描かれていたりもするので、額面通りに受けとるものではない気がします。


最後に少しだけ、『さらざんまい』の元ネタではないかと目されているラカン芥川龍之介『河童』について、前者は斎藤環著『生き延びるためのラカン』後者は青空文庫でさらっと読んでみました。

ラカン、というよりそれを中心とした精神分析に関しては、個人的に理解はするが同意はしかねるといった感じでしたが、精神病の患者の談である『河童』から精神分析に行くのは筋が通っていると思いますし、また男性中心主義かつファルス(ペニス)中心主義の精神分析(ここの是非に関してはとうに議論がなされているのでしょうが)を扱うに当たって、男性を中心とした物語にしたとすれば、それは誠実なアプローチである気がしました。

『さらざんまい』に登場するものと共通するキーワードも多数見られましたし、このあたりを参照している可能性は高いですが、『ピングドラム』の「地下鉄サリン事件」にしても『ユリ熊嵐』の「三毛別羆事件」にしても、それはあくまでモチーフのひとつであって、それそのものを描くための作品ではなかったことを考えると、「元ネタ」というよりはサブテキストのひとつぐらいに考えた方が、個人的にはいい気がしました。それらのモチーフを使ってこの作品が何を伝えようとしているのか、そのあたりを外さないように、ここで得た知識も生かしつつ今後も色々考えながらこの作品を楽しんでいこうと思います。


それではこの辺で。

グッドサラーック!