【映画】「起きたいなら眠れ」とは——『アステロイド・シティ』感想(ネタバレ)

ウェス・アンダーソン監督最新作『アステロイド・シティ』観ました。


 

ここから感想を書いていきますが、ネタバレを含むのはもちろん、例のごとく情報量が膨大な作品で、まだ1回観ただけなので細かいディテールが間違っているかもしれませんが、その点はあしからず。

 

本作のストーリーは次のように紹介されます(以下公式HPより引用)。

時は1955年、アメリカ南西部に位置する砂漠の街、アステロイド・シティ。隕石が落下してできた巨大なクレーターが最大の観光名所であるこの街に、科学賞の栄誉に輝いた5人の天才的な子供たちとその家族が招待される。
子供たちに母親が亡くなったことを伝えられない父親、マリリン・モンローを彷彿とさせるグラマラスな映画スターのシングルマザー──それぞれが複雑な想いを抱えつつ授賞式は幕を開けるが、祭典の真最中にまさかの宇宙人到来!?この予想もしなかった大事件により人々は大混乱!街は封鎖され、軍は宇宙人出現の事実を隠蔽しようとし、子供たちは外部へ情報を伝えようと企てる。果たしてアステロイド・シティと、閉じ込められた人々の運命の行方は──!? 

 

しかし映画が始まると、いきなりTV番組の収録風景が映し出され、司会者が『アステロイド・シティ』という演劇の解説を始めます。つまりは上記のあらすじは全て劇中劇であることが冒頭から示されるのです。

 

では架空の作品の舞台裏を描いた作品なのかと言えばそういうわけでもなく、基本的にはやはり上記のあらすじのような『アステロイド・シティ』の物語が中心となって進んでいきます。だいぶややこしいですが、要は本編(フィクション)とメイキング(現実)が並列して描かれていくような感じです。

 

普通そんなことしてしまったら、本編でどんなにドラマティックな展開があっても「どうせ役者が演じてる作り物なんでしょ?」と冷めてしまいそうなものですが、本作は不思議とそうなりません。

「フィクション」パートも「現実」パートも、結局ウェス・アンダーソン的な作り込まれた世界観で一貫しているというのもありますが、特に大きいと思うのがどちらのパートでも「演じる」シーンが入っているということ。またややこしいですが劇中劇である『アステロイド・シティ』の登場人物として役者が出てきて台本を読み合わせる「演じる」という行為が何重にも入れ子になったシーンがあったり、「現実」のパートでも手紙を代読するシーン=手紙を書いた人物を「演じる」シーンがあり、そのどちらも「演技」と分かっていながら非常に心を打つシーンとなっています。

たとえそれが「演技=作り物」だったとしても、そこには間違いなく心を動かす何かがあるのです。劇中劇に登場する女優も、劇中劇で戦場カメラマンを演じる俳優も、現実の感情がよく分からないという中で「演技=作り物」を通じて感情というものを理解していきます。

 

終盤の印象的なセリフとして「起きたいなら眠れ(眠らなければ起きられない)」というものがあります。これは「フィクションばかり見てないで現実を見ろ」の逆で「フィクション=作り物を通してこそ現実が分かるのだ」と、そういうメッセージに私は受け取りました。それは「現実」パートが白黒の正方形に近い画面で、「フィクション」パートの劇中劇が色鮮やかな横長の広い画面になることにも象徴されている気がします。そしてそういったメッセージを映画界でも屈指の「作り物らしさ」を誇るウェス・アンダーソン監督作で感じるというのが「作り物で何が悪い」と高らかに宣言しているようで、非常に痛快でした。

 

ウェス・アンダーソン監督作を全部観ているわけではありませんが、かなり集大成的な作品に感じましたし、個人的にはベストかもしれません。思い返すだに素晴らしい。とりあえずもう一回観たい。

 

 

今回はこの辺で。

消灯ですよ。