『さらざんまい』第1話感想と考察的な?

待望の幾原邦彦監督最新作『さらざんまい』がついに始まりました。




女の子が熊になる前作『ユリ熊嵐』から一転(と言っていいのか分かりませんが)、今作『さらざんまい』は男の子が河童になる話です。

河童は一旦置いておいても、まず男の子がメインというのが幾原監督作品としてはフレッシュです。幾原監督は『少女革命ウテナ』以降、その時々の社会で成立するのが困難な愛が、誰かの世界を革命するという物語を描いてきましたが、その「愛」の多くが女性同士という形をとって描かれています。

そんな中、男の子メインの今作『さらざんまい』はどんな描かれ方をするのかと観てみれば、まず目につくのが執拗な尻まわりの下ネタ(スカ方面を含む)という謎の攻め方。ケッピが尻子玉を抜く様は完全に排便のそれですし、ハコゾンビの尻子玉を抜く際に尻穴から汁が噴き出していたり、「さらざんまい」で秘密を共有するシーンでは、「漏」の字とともに主人公たちのシルエットの尻から何かが出ていくアニメーションが重なっていたりとやりたい放題です。一応前作『ユリ熊嵐』でも「デフォルメされた熊が人間状態なら絶対に映せないポーズをとる」というギャグをやっていたように、それらはあくまでポップに表現されていますが、何にしても男メインになってまずやることがそれなのか!

そこらへんの掘り下げはおいおいあるでしょうから、一旦置いておきましょう。それより『ユリ熊嵐』の名前が出たところで(まあ自分で出したんですが)、話を強引に『ユリ熊嵐』との比較にもっていきますが、今作『さらざんまい』は前作『ユリ熊嵐』と非常に連続性を感じさせるものになっています。

「熊が人になる話」が「人が河童になる話」に、「女の子」が「男の子」に、「寓話的な世界」から「実在する町」などと、今作『さらざんまい』は前作『ユリ熊嵐』を反転させたような舞台立てになっているのです。また、今作の大きなキーワード「箱」「欲望」も、『ユリ熊嵐』において前者は8話「箱の花嫁」で、後者は作品に通底する「承認欲求」というテーマや、るる・銀子の葛藤として印象深く描かれています。

単なる揺り戻しというのもあるでしょうが、これはどちらの作品も前提に「SNS社会」というのがあるからなんじゃないかと思います。

ユリ熊嵐』はSNSが広がり、誰もが「いいねボタンを押してもらいたい」フィールドに生きている現状とどう向き合うかを考えて作ったと監督が語っていますし、『さらざんまい』でも「つながり」がメインテーマとなっているあたり、よりSNSそのものの本質に迫った作品になることが予想されます。このように前提となる社会状況が共通しているために、構造が近いものになったという面もあるのではないでしょうか?

ついでに過去の幾原作品との共通項で他に気になった点を幾つか。


マスコットキャラクターの存在

ウテナ』のチュチュ(猿)、『ピングドラム』のペンギン、『ユリ熊嵐』の熊と、幾原作品では毎回マスコット的に動物が登場していますが、『ピングドラム』以降物語の象徴としての側面が強くなっています(『ウテナ』でもそういった演出はありましたが、強く出たのは『ピングドラム』からだと思います)。「家族」を描いた作品には「ペンギン」、「相容れない(と勝手に思っている)他者との理解」を描いた作品に「熊」といった具合で、象徴的に動物が配されてきた中、今回の『河童』が何を象徴しているのかには注目です。まだわからないことも多いですが、個人的には「空想上の生物」であることが重要なのではないかと思っています。さらに裏表のような形で「カワウソ」という現実の動物が配されているところにも、何らかの象徴性を感じさせます(第一に河童の元になったのがカワウソだとか、カワウソが河童になるだとかの話からの発想かとは思いますが)。


ポップなテクスチャーデザイン

『廻るピングドラム』から幾原監督とタッグを組む越阪部ワタル氏のデザインが、今作も隅々まで散りばめられています。『ピングドラム』以来のピクトグラムと化したモブが髷を結ってるのとかもおかしいんですが、何より気になるのが東京メトロのアイコンに酷似した太いピンクの円の中にカタカナで「ア」とだけ書かれたアイコンです→㋐。

これは頭文字と考えると無限に読み取れるため、「アサクサ」や「アイ」、「対象a」というインテリな解釈から「アナル」なんてものまで、様々な考察が溢れています。ただ結果的にそういう読みができるようになっているとはいえ、それらを「ア」一文字で表すのはさすがに乱暴じゃないかと思うので、個人的に大元となっているのは「@」なんじゃないかと考えています。

『さらざんまい』ではとにかく㋐が溢れています。町の看板からケッピの登場シーンまで、とにかく大量の㋐が出てきます。そして冒頭、一稀の「この世界は繋がりに溢れている」という言葉。冒頭の時点では、町に㋐の看板はなく、春河(ハルカッパ?)の呼びかけに応じて大量の㋐が降ってくる。これはおそらく本編よりは過去の場面で、一稀がハルカッパ?との「繋がり」をきっかけに「繋がりに溢れた世界」に踏み込んでしまった様子と読み取れます。幾原監督もこの番組のラジオで一度「繋がり」が出来てしまえば、それがない世界にはもう戻れないことを強調していたりして、つまりこの㋐は、「繋がり」を象徴していると考えられます。

そこで連想するのがTwitterにおいて、それがアカウントであることを示す「@」です。丸の中に「a」これを日本語に直すと丸の中に「ア」つまり㋐になるわけです。ということで、㋐=繋がり=Twitter=@というのが私の解釈です。まあこれにしたってこじつけっぽいですが。


そしてこれだけ「繋がり」を強調する物語の舞台が、世界最大の電波塔であるスカイツリーがそびえ立つ「浅草」であることもまた示唆的です。むしろカッパというモチーフ自体、スカイツリー=浅草=合羽橋=カッパという連想から出てきた可能性さえ十分にあります。

この「繋がり」をめぐる物語がどこに向かうのかはまだわかりません。そもそも川嘘交番にいる二人の警官が何者か、「欲望搾取」とは何かなどなど、まだ明かされていないことが多く、幾原監督自身がラジオで語っていたように、幾原作品では登場人物の過去が重要な鍵になることが非常に多いため、1話で全体を俯瞰しようとするのは無理な試みなのです。

というわけで、幾原監督の最新作を観れる喜びに浸りつつ、これから考察まがいの真似事的なことをしながら毎週楽しみに観ていきたいと思います。


それではこの辺で。

消灯ですよ。