エヴァシリーズほぼ初見で観た『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想(ネタバレあり)

※この文章には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』『インサイド・ヘッド』『レディ・プレイヤー1』のネタバレを含みます。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』観ました。

エヴァシリーズは遠い昔にTVシリーズをソフトで序盤だけ観た(確かアスカが出て来たぐらいまでで、お話は全く覚えていない)だけで、後のいわゆる「旧劇場版」、今回に連なる「新劇場版」も全く観ていません。もちろんこれだけの巨大シリーズですから、主要キャラクターや大まかなストーリー(少年少女がエヴァに乗って使徒と戦う)、「人類補完計画」のような断片的なキーワード、そしていわゆる「セカイ系」の代表作であることをどこかで耳にしたり、おぼろげな記憶では知っている程度の、完全なエヴァ弱者です。

ずっと一度はちゃんと観ておきたいと思いつつ、結局今の今まで録に触れてこないまま、おそらく最終作であろう今作が公開されてしまって、いっそ何も観ずにいってみるかと思い、今回からエヴァ入門と相成りました。この直前に大ヒットしたアニメ『「鬼滅の刃」 無限列車編』を同じく徒手空拳状態で観に行ったのが結構楽しかったのも大きいです。


それで今回観てみてどうだったかと言えば、まず冒頭にこれまでのあらすじがあって、おおよそ色々あった後、シンジが何かやらかして世界が大変になったことは分かったので、序盤からついていけないみたいなことは無かったです。まあ序盤は見知ったキャラが1人もいなかったり、敵もエヴァと呼ばれていたりと分からないことも多々ありましたが、敵が使徒から変わってシンジやらかし後に残された人が頑張ってるのだということは想像がつくので、特に困りはしませんでした。何よりメインは戦闘でしたし。

そして前半、いよいよメインキャラが出てきますが、なんかとぼとぼ登場して、そこからポスト・アポカリプス世界でスローライフ生活をはじめ出したのは流石に面食らいました。特に綾波レイ(そっくりさん)とかスーツ姿で田植え始めちゃうし。

ただこれも観ていくと、自然に囲まれた中で人々の暖かさに触れ、精神を回復していくというシンジ君のセラピーパートだということでちゃんと腑に落ちます。...ただそれでも何を見せられているんだという感じはありますが。あと終わってから振り返ると、この場面は綾波レイの「エヴァに乗らない生き方」を示す救済ポイントだったのだと思います。

田舎のスローライフ生活ですっかり元気になったシンジ君が戦艦に乗り込んで敵地に乗り込む後半は、ガイナックスの流れも当然あるでしょう、『天元突破グレンラガン』(の特に第4部)っぽくて楽しかったです。全編そうではありますが、次々繰り出される専門用語も庵野脚本の『シンゴジラ』で「分からなくても物語追うのに特に支障無いな!」という心構えができていたのでやはり問題なかったです。


ここまでいわゆる「セカイ系」で連想するような、ウジウジした内面描写はほとんどなく(序盤シンジ君の描き方も、外からの客観的なものに終始していた気がします)、前半などはむしろ社会の中で生きることこそを中心に描いていて、「セカイ系」的なものから意図的に距離を置こうとしているように感じました。

距離を置くという意味では、冒頭から隊員の女性がプラグスーツのピチピチ感にツッコんでたり(農家のおばちゃんも言ってました)、同じ人が巨大綾波が出たあたりとか適宜ツッコんでいたりして、エヴァ的なものを相対化するようなキャラクターを置いていたのが印象的でした。エヴァ弱者としては、彼女の存在でだいぶ観やすくなった気がします。(そう言いながら胸とか尻とかやたら強調するカットはバンバン出てくるんですが)

しかし、そこまで距離を置かれていたエヴァ的な感じにグイグイ入っていくのが、シンジ君がついに動き出すクライマックス。少年が女性たちに囲まれてやいのやいの言われてる様は大分っぽかったですし、世界の命運が父子の対話に委ねられるのも、まさに「セカイ系」と行った感じで、これはイメージするもののど真ん中を見せてくれた感じで嬉しかったです。

しかし、最後に「セカイ系」的なものに回帰するのではなく、むしろ徹底的にエヴァ的なものを相対化していくのがこのクライマックスです。

CG丸出しで、箱みたいに建物が吹き飛ぶ戦闘シーンだなあと思ったら、そこは実際スタジオに組まれたセットであることが分かるとか(セット描写はその後も繰り返される)、(多分)TVシリーズの映像が流れたり、急に指示とかが書かれた原画のまま動いたり、クライマックスの
「これは作り物ですよ」と大声で説明するような相対化描写は枚挙にいとまがありません。

そして語られるゲンドウの過去。愛する人のために世界を巻き込むという、「セカイ系」そのものな動機が語られた上で、そんな父を前半に社会で生きることを学んだシンジ君が諭すという展開は、過去をよく知らなくても「大人になったんだな...」と思わずにはいられません。

そんなゲンドウにはじまり、アスカ、カヲル君、綾波レイ(彼女は前半のそっくりさん描写も含む)、そしてエヴァンゲリオンと、優しく送り出し、さながら成仏させていく様は、映画『インサイド・ヘッド』で主人公が空想上の友達(イマジナリーフレンド)と別れて成長し、大人になる展開を思い出しました。

そして極め付けがラスト、実写の駅で大人になったシンジ君とマリが一緒に走っていくという画。ここまでの流れから、一見すると「虚構の世界に浸るのはやめて現実を見なさい。大人になりなさい」というメッセージとも取れます。しかし、実写世界に描かれるシンジ君をはじめとしたキャラクターはしっかり絵として描かれているわけで、「虚構よりも現実」というよりは、『レディ・プレイヤー1』のラスト同様、バランスの話なんじゃないかと思いました。ゲンドウのように虚構と現実の区別ができない(むしろ積極的に無くそうとする)態度はやはり危ないから、どちらにも入れ込みすぎない、健全なバランスが大事だよと、こう書くとなんだかバカっぽいですが、そういう風に感じました。


エヴァは一部で「四半世紀の呪いなどとも呼ばれていますが、今作はお話をたたむ以上に、その呪いを解いて、エヴァに囚われていた人を未来へ送り出すために作られた作品ではないかと、全くの弱者ながらそう思った次第です。


というわけで、初めまして、そしてさようなら、全てのエヴァンゲリオン

そして、お疲れ様でした。