折坂悠太『心理』の歌詞を味わう

2021年10月6日、前作『平成』以来3年ぶりとなる折坂悠太のアルバム『心理』がリリースされました。

 

 

私が折坂悠太を知ったのは、今年はじめごろ『平成』を遅ればせながら聴いて、遅ればせながら衝撃を受けたのが最初の新参ファンです。なので、今回新譜をリアルタイムで楽しめることを大変喜ばしく思っています。(もちろんここまでの細かなリリースも大変楽しみました)

 

音楽的に非常に優れているのは聴いていれば当然感じるわけですが、私にはそれを表現する知識も語彙も無いですし、既に各所で語られていることでしょう。

 

なので、わずかながら私が語る言葉を持っている歌詞の面から、新作『心理』を味わってみたいと思います。

 

前提として公式サイトに掲載されている「3rd Album「心理」発売のご挨拶」として掲載されている文章を引用します。

何かに例えることができない。このアルバムは、簡単な物語に消化される事を拒んでいます。それでも私は表現者なので、表現できなければ終わりです。悩んだ末、「心理」と名をつけました。

どうすることもできない「心」を認めながら、もう一方では、それを道筋立て、自分の選択に「道理」を見出さなくてはなりませんでした。最近の私は、常にこの二つのプロセスの狭間に居て、そこにいつも音楽がありました。

表現には、同じものを見て、感動を共有することの他にも、役割があると思います。いま私がするべきことは、ここに(そこに)ある心を見つめ、問いかけつづけることだと考えます。

新しい画を見せたい。新しい画を見せてください。あなたと私が違う場所で、共有されない物語を作る時、このアルバムが伴走者となる事を望みます。

折坂悠太

 

『心理』をよく聴いてから改めてこの文章を読むと、作品の解説としてこれ以上のものはないように思われます。そこにさらに言葉を加えていくというのは野暮な気がしてならないのですが、それはそれとして、この不思議な歌詞世界がなんなのか気になって仕方がないので、1曲ずつ印象的な歌詞を引用しながら、じっくり味わっていければと思います。

 

 

1. 爆発

もういいかい もういいかい

言葉つぐんだ悲しみよ

もういいかい まだだよ

まだここに灯は灯る

長すぎる夢が覚める頃に

まずこの『爆発』というタイトルはなんなのかですが、私はコロナ禍を連想しました。今までの世界が一変してしまったこの出来事を、全てを消し去ってしまう爆発に例えたのだと。その中でなんとか耐えて、望みがまだ繋がっているのだということ諦観とともに確かめているように感じました。「もういいかい」のように問いかけたり、相手の答えを促す表現は、このアルバム通して何度かする表現ですが、この曲のそれは制限が解かれるのか解かれないのか、そんなもどかしい状況を表しているようです。

 


2. 心

例えば俺は、いつかの蜂

それを思えば、ちょっとは笑ってくれるかな?

以上です どうぞ

印象的な台詞から始まるこの曲は、大きな舞台でなくとも、様々な場所で音楽を続けている人たちのことを考えて作ったと本人が語っているのをラジオで聞きました。コロナ禍以降たびたび槍玉に挙げられている音楽業界ですから、そんな煙たがるような声に対する皮肉がこの台詞に込められているのかもしれません。そしてやはり問いかける形になっていることで、逆にこの思いは届かないんだろうなという諦観を感じたりもします。他にも「鉄の砦に 手紙は焼かれ」という一節には、音楽業界に限らず、各業界があげている苦しさを訴える声を、ろくに聞こうとしない国を連想したりしますが、最終的には音楽を奏でられる喜びが感じられる歌詞になっています。

 

 

3. トーチ

お前だけだ あの夜に

あんなに笑っていたやつは

私だけだ この街で

こんな思いをしてるやつは

台風などの自然災害を題材にして書かれたというこの歌詞ですが、それだけに止まらない非常に普遍的な歌詞だと思います。特に「私だけだ この街で こんな思いをしてるやつは」という一節は、実際には多分そんなことはないのだけれど、そういう気持ちになる瞬間は間違いなくあって、そんな思いを的確に切り取った素晴らしい一節です。

 


4. 悪魔

あきらめちゃないが

この船は終わりだよ

ここまでの曲にも通底していた諦観ですが、この曲ではそれが非常に強く感じられます。「筆を投げた画家」「消石灰で絵をかく」「打ち捨てられた自転車」など、本分を全うできない、あるいは全うさせてもらえない状況で、全てを投げ出して踊ろうじゃないかという、まさに悪魔の囁きのような歌詞です。また『心』の歌詞や『トーチ』という形で希望的なニュアンスで使われていた「灯」というモチーフを消すという描写からも、徹底的な諦観を感じさせます。ただそんな諦観に心地よさも感じてしまうのです。

 


6. 春

確かじゃないけど

春かもしれない

『悪魔』の諦観に満ちたムードから一転、のどかで楽観的なムードが感じられるこの曲。多少状況が落ち着いてきて、希望の予感がわずかながら出てきた今では、最初にこの曲が発表された去年とはまた違った形でこの言葉が響くかもしれません。

 


7. 鯱

想像において放った砲弾

貫通至らずもくさびだろうが

抽象的な歌詞の多い折坂氏の歌詞の中でも、特に不思議な歌詞になっているのがこの曲。意味よりも言葉の音・韻・リズム先行で紡がれたように思われます。なんとなくですが、1番はイマジネーションが現実に影響を与えることを、2番は現実にイマジネーションを与えることを歌っているように感じました。その点でタイトルの『鯱』は動物ではなく、空想上の動物である「しゃちほこ」の方の意味なのかなとも思いました。

 


8. 荼毘

いつのことだか山陰山陽

波もあの日も帰らんもんな

今生きる私を救おう

「生」と「死」の対比、というと陳腐に聞こえますが、そのようなことをやはり感じてしまいます。『さびしさ』という曲でも同様の対比がありましたが、この曲では「生」が非常に寄る辺なく、今にも消えてしまいそうに思います。「いまだ いまここ」という一節には、いずれ「そちら側」に行くだろうということが暗に示されています。「今生きる私を救おう」という言葉も、「死」を近くに感じているからこそ出てくる言葉だと言えます。「ダヤバダヤバ...」というフレーズは、その不穏な響きから、まさしく荼毘の様子を表しているようで、そう思うとハイハットの音が日がはぜる音のようにも聞こえてきます。

 


9. 炎 feat. Sam Gendel

どうするつもりでいるんだろう

今、動かずただ、ここにいるよ

残されてる手段がなくて

なすすべただ、ここにいるよ

「ここ」という言葉が「今」や「まだ」という言葉とともにここまでの曲でも度々出てきましたが、これはやはりコロナ禍で外に出れず家に留まるしかない現状を思い浮かべてしまいます。先の『トーチ』から『悪魔』のとき、同じ「灯」というモチーフが逆の使われ方で出てきましたが、ここでも『荼毘』の死をまとった火のイメージから、暖かい焚き火の炎へと逆のイメージで反復されているのが印象的です。そこにはまさに「心」と「道理」の狭間で揺れ動くような、単純化できない感情があるのだと思います。

 


10. 星屑

優しい顔しないでいい ただ

眠っててほしい 私を待たずに

私を忘れて

ただただ優しい。悲しみも諦観もなく、ただただ優しくこの幸せを願うこの曲を聴きながら夜の道を歩いていると、本当に暖かな気持ちになって泣きそうになる。

 

 

12. 윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン

こちらからは以上です

Over over

Over all over

無線のやり取りのようだが、中身は目の前の景色を説明するばかりで、続けて入ってくる言葉も韓国語で何を言っているのか分からない。会話として成立しているのか、それともそれぞれ全く別のことを話しているのか。和訳を読んだら、確かにどちらも川のことを話しているが、会話になっているわけではない。この、会話するでもなく、特別相手に共感するでもなく、問いかけたら何かしら返ってきただけというこの距離感がなぜか暖かい。おぼろげながらつながりを感じる、それだけで十分じゃないか、それぐらいの距離感がいいんじゃないかと、そう思いました。最近では多言語が交わる曲も普通になりましたが、それを違和感なく受け入れられるのはただメロディーとしても聴けるからで、この曲のように語りになると、また別の存在感を発揮していて新鮮でした。

 


13. 鯨

ちりんちりん自転車乗れた日に

始まり帰ってゆく

暗いぐらいブルーのその場所で

また遊ぼう また遊ぼう

ジャケットがまず水に沈んだ写真だったり、動画にも海の景色が使われていたり、この曲も含め『心理』は水が印象的に扱われています。一方で「灯」や「炎」も印象的に使われているので、そこがまた単純ではないところなのですが、なぜ水なのか?息苦しさなのか、生命の根源としての海からきているのか。私は『爆発』に始まり、深海で終わるこのアルバムには、何かのはじまりを感じます。

 

 

ここまで書いてきたことが、どこまで妥当なのか、ただの野暮なのかはわかりませんが、このアルバムを聴いて何かを書かずにはいられませんでした。きっと聴き続けて行くうちにまた違う何かを思ったりもするのでしょう。とりあえずはこの先も聴いていきますし、このアルバムを引っさげて行われるツアーにも行くつもりなので、さしあたりそれを楽しみにしたいと思います。

 

それではこの辺で。

 

消灯ですよ。